The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

「戦争をコンテンツとして消費するな」というツイートは何も生まない

ウクライナ情勢に関連して、さまざまな人がSNSで何かを云っている。それに対して「戦争をコンテンツとして消費するな」とか「安全圏からお気持ち表明していい人アピールかよ」といった批判を散見する。同様のことを云っている人はいくらでもいるので、あえて個別のツイートを例示しないが、Twitterで「戦争 コンテンツ」とか「戦争 お気持ち」と調べればわかる。

「コンテンツとして消費」とか「お気持ちを表明」といった言葉遣いに疑問はあれど、その批判意識は理解できる。私だって、「普段国際情勢に対して全然興味なさそうなのに急にストーリーにウクライナ国旗載せてらっしゃる」くらいのことは思ってしまう。戦争をだしにした下品な投稿も実際にいくらでもあるのでしょう。そういうのに厭気が差して、別のシチュエーションで似たような批判をツイートしたこともある。

しかし、戦争をコンテンツとして消費することや、戦争に際して「お気持ち」を表明することを十把一絡げに批判して良いとは、今は考えていない。そもそも、「コンテンツとして消費するな」とか「お気持ちを表明するな」という言説それ自体が、戦争をコンテンツとして消費することとか「お気持ち」の表明であることから決して免れてはいないだろう。だからそれら一般を批判するならば、それらに対する批判そのものもできなくなってしまう。

あるいは、『君死にたまふことなかれ』はお気持ち表明じゃないのか。『安全への逃避』は戦争をコンテンツとして消費していることにならないのか。与謝野晶子も沢田教一も、その時代にTwitterがあって、作品をアップロードしていたとしたらめちゃくちゃdisられていたのではないだろうか。もちろん彼女らもその時代に応じた批判を受けただろうけど。

それらの作品が後世に残っているのに対して、TwitterやInstagramでお手軽になされる投稿は、それらとは全然質が違うという向きもあるかもしれない。しかし、いくら技巧の差があろうと、お気持ち表明でありコンテンツとしての消費であることには、本質的には変わりないと思う。もし巧拙によって批判するかしないかが変わるのであれば、それは個々人の能力差や境遇の違いによって生まれる格差を間接的に肯定することになるのではないだろうか。「レベルが低いから発言するな」と。

晶子は弟が戦争へ行くという立場だったし、そして沢田はもちろん現地で写真を撮影したわけだから、彼らは「安全圏」におらず、「いい人アピール」ではなく真剣な思いから生まれた作品なのかもしれない。それはそうだろう。晶子の弟はたまたま無事だったが、実際に沢田は後年、取材中に命を落としている。一方で、とくに沢田にはジャーナリストやカメラマンとしての功名心のようなものもあったのではないかと思うし、それが良い写真になるという確信があったのではないだろうか。これは邪推に過ぎないし、伝えねばならない、という覚悟がなければ戦場に足を踏み入れて撮影などできないだろうから、功名心が全部とは云わないけれど。

「安全圏」から物を言っているのではないのだから、コンテンツとしての消費でもなければお気持ち表明でもない、とする人もいるかもしれない。それは私の考えとは異なるが、そうであったとして、そもそも「安全圏」から物を言うことはなんらかの罪だろうか。ウクライナの人々が戦禍に巻き込まれているのは、彼らひとりひとりの行動に責任があるわけではないのと同じように、自分がいま「安全圏」(とされる場所——本当に安全なのかは誰にもわからない)にいるのは、自分の責任ではない。戦場に行っておらず、戦争に家族が巻き込まれておらず、あるいは賞を獲る写真を撮れず、後世に残る詩を書けない人は、口をつぐむべきとは私には思われない。

「いや、誰もが口をつぐむべきとは云っていない」という向きもあるかもしれない。そうですね。戦争をだしにした下品な言及だけを批判したいし、なくしたいのかもしれない。でも、肝心な問題として、そうした批判はそれを受けて自分を省みる能力のある人の発言を困難にする一方で、そういうことを考えもしない人には届かず、彼らの口をつぐませないから、そうした厭気の差す状況は改善しないどころか、悪化する一方ではないかと危惧している。冒頭に挙げた種類のツイートは何も生まない。

そして「お気持ち」表明と、後世に残る偉大な作品との峻別が誰に可能だろうか? 当事者でなくとも、「安全圏」にいても偉大な作品は残しうる。だからそれは峻別の基準にはならない。もちろんどのような角度から見ても下品としか思われない投稿もあるかもしれないが、それすら個人の意見に過ぎない。だからいま厭気が差している人がすべきことは、大づかみで一般論的な批判をして比較的「良識ある」人々を黙らせることではなく、下品と感じた投稿に対して「私はこの投稿は下品だと思います。なぜなら……」というように、個別に、かつ具体的に批判することではないだろうか。それができないのであれば、ここまでに述べた理由から、大づかみな批判ならばしないほうがマシではないか。

私は今のところは、自分は戦争をコンテンツとして消費しているだけかもしれない、と自覚しつつ、しかし云うべきと思うことを云うしかないと考えている。


そもそも戦争を「コンテンツとして消費」することにはどのような問題があるのか、あるいは「お気持ち」なるものを表明することにどのような問題があるのか、といった論点については、力不足によりここでは言及できなかった。この文章を書くにあたり、相談に付き合い私の考えを整理するのに有用な意見を与えてくれた友人たちの助力に感謝する。