The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

「ていねいな暮らし」以外

「ていねいな暮らし」に対して、次のような批判がよくなされる。

曰く、「ていねいな暮らしは、社会を改善しようとせずに自分の生活を工夫することで悪い状況を乗り切ろうとする行為で、それは体制に荷担しているようなものである」——というような論だ。それはおそらく正しいだろう。

『暮しの手帖』を創刊した花森安治は戦時中、「ていねいな暮らし」的な生活によって「銃後」をまっとうしようと呼びかけていたのだし、現在の「ていねいな暮らし」が大好きな人がみんな愛読していそうな『ほぼ日』の糸井重里なんか、昨今の感染症に関連して「責めるな。自分のことをしろ」とツイートして炎上した。まさしく、という感じである。

私自身だって、「ていねいな暮らし」はどことなく鼻につくと思う。なーにがていねいな暮らしだよ。こっちには暮らし自体が存在しないんだぞ。まともな生活なんて全然していない。でも一方で、ていねいに暮らせたらおそらく楽しいだろう、精神が安定するだろう、とも思う。

マクドナルドに行って何がどう加工されたのかさっぱりわからないようなジャンクフードを食べるより土井善晴の本でも読んで新鮮な野菜を農協の直売所で仕入れて一汁一菜をつくったほうがおいしいに決まっているし、また充実しているに決まっているし、それが本来自然なのかもしれない。それをしないのはただ私にはいまその余裕がないだけだ。余裕があってもそんな生活力はないかもしれないし、やっぱり鼻につくのでやらないかもしれないが。

だから、上のような批判に対して思うのは、ではこのクソみたいな社会状況で自分で生活を工夫することなくどう人生を楽しんでいけば良いのか、ということである。「ていねいな暮らし」以外の活路はどこにあるのか?

Twitterで社会や政治に対して常に怒っているように見える人は(私もその傾向は否めないが)やはり人生が楽しそうには見えないのだし、かといって生活も政治も俺には関係ないねというような顔をして虚業に邁進し六本木で遊び歩いている人にもまったく憧れることができないし。

今のところの自分の答えとしては、月並みだが、おそらく結局はバランスなのだろうと考えている。ほどほどにていねいに暮らしつつ、ほどほどに家系ラーメンでも食べつつ、ほとほどに金を儲けつつ、ほどほどに政治に文句を言いつつ、という。それがいいのだろう。そして多くの人がおそらくそれを採用しているのだろう。美しき中庸の世界よ。

でもその「中庸」だっておそらく「ていねいな暮らし」の変奏に過ぎないのであって、信奉するイデオロギーが違うか、もしくは単にイデオロギーがない、ということではないだろうか。結局「中庸」を取ろうが「ていねいな暮らし」を取ろうが人生は充実させられるのかもしれないし、しかし社会は依然としてクソである、ということにならないだろうか。

そのようなことを考えると、「ていねいな暮らし」はおそらく社会にとっての正解ではなく、かといって「ていねいな暮らし」以外の活路も見いだせないし、そもそもこれが活路である、と思えるようなやり方などないのかもしれない。社会を変えるというのも抽象的に過ぎ、いずれにしたって1人の人間の手には余ることだと思ってしまうしなあ。全然考えがまとまらない。何も判らない。

なお、「ていねいな暮らし」を採用するかどうかとかで迷える時点でかなり余裕のある悩みだろう、というのは承知している。たとえば毎日長時間労働や低賃金に苦しんでいる人、家庭環境に苛まれている人などはていねいに暮らす余地など端からないと思われる。「ていねいな暮らし」を視野に入れることもできない人々がクソみたいな社会状況の本当の被害者だろう。