The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

オンラインの憂鬱

以下の記事はnoteから移行したものです。

僕はコンピュータとインターネットがなければ何もできない人間だが、昨今社会で進んでいるオンライン化の波には危機感を覚えている。 どんな変化にも良いことと悪いことがあるし、オンライン化がもたらす益もかなり莫大だと認識しているが、このような世相ではオンラインこそが絶対の正義となって、長所ばかりが持て囃されることになりそうだから、あえてその欠点を並べてみようと思う。論点は主に3つある。格差の増大、人間関係、そして監視と偶然だ。 欠点と言いつつも、明確で客観的なものだけでなく、個人的な印象とか、不安視している点も多分に含まれていることは、予め申し上げておきたい。

格差の増大

オンライン化によって縮小する格差もあれば、増大する格差もある。

悠々と自宅で働くホワイトカラーと、そうでない人

まずは、ホワイトカラーとそれ以外の格差。僕は学生だが、IT業界の端くれに身を置いているので、ほぼすべての仕事をWFH(ワーク・フロム・ホーム。テレワークは「自宅で働く」というニュアンスが弱い気がするのであえてこの語を使う)で捌ける。そして、必要なものはAmazonで頼み、お腹が空いたらUber Eatsで届けてもらう。 このような暮らしをしているホワイトカラーは(ITに限らず)多いのではないかと思う。自分は家で悠々と過ごし、誰かが代わりに外で働いてくれる。ギグワーカーや物流だけでなく、インフラ、農業、医療、介護など、重要な仕事がWFHではできない。オンラインにできる仕事とできない仕事。これは感染症が流行していなかったら格差とは言えないかもしれないし、今後はわからないが現状ではそのような構図があるのは間違いない。 そんな状態で、自宅から悠々と働ける立場の人間が「テレワークを推し進めよう」などと喧伝するのは傲慢ではないだろうか?

自宅教育ができる家と、できない家

教育の面でも格差は増大する。 もちろん、是正される格差もある。たとえ地方に生まれても、都市で行われるレベルの高い教育を容易に、より低コストで受けることができるようになるだろう。しかし、それを受けるにも、環境が良くなければならない。 例えば、僕には4月に中学生になった弟と、小学6年生の妹がいる。学校の休校がずっと続いているが、何をしているかと言えばほぼゲームである。ゲームが悪いとは言わないが、学校があった場合に本来学べていたことを学べていないのは確かである。親がたまに勉強させているが、そうしているだけまだマシで、例えば仕事が忙しく子供を自宅で勉強させる世話をする余裕がなかったり、あるいはそもそも子供が勉強をすること自体に熱心でない保護者もいるだろう。 そうすると、子供の教育に熱心な親と、そうでない親とで、生まれた子供にとっての教育格差は今まで以上に増大するだろう。とりあえず学校に行かせておけば、ある程度強制的に(あるいは自動的に)身についていたものが、身につかなくなる。 もちろん、既存の学校というシステムに囚われず、学習機会の担保という機能も含めてドラスティックなオンライン化を進めれば、この格差はある程度是正されるだろうが、そうなるまでにどれほどの時間とお金がかかるのだろうか。

オンライン化そのものが生む格差

労働のオンライン化とか、教育のオンライン化といったことではなく、オンラインになることそのものが格差を生む場合もある。 それはほとんどインターネットとかコンピュータが生み出した格差と同じで、要はオンライン化に必要なツールはまだ、すべての人間にとって優しくないのだ。 もちろん、黒い画面に文字列が並び、そこにコマンドを入力して操作をしていた時代に比べればはるかに優しくなっているし、最近も音声操作など新しいUIが生まれて、継続的に優しくなってきてはいるのは間違いないけれど、いまだに訳わからん概念がコンピュータの世界にはたくさんあるし、コンピュータ技術者にとって十分に優しいと思われる設計が、全然そうなっていない、ということも往々にしてあると思う。 例えば何か操作をしていてポップアップウインドウが出てくる。横文字の多い文章が書かれており、「OK」「キャンセル」などとボタンが並んでいる。コンピュータを使い慣れた人であれば、なんとなく「これはバツで閉じていいよ」とか「これはOKを押せばいいよ」などとわかるものだが、仮にそう説明されたとしても「なぜバツで閉じていいのか」わからない人がたくさんいる。 また、「何かわからないことがあれば、まず人に聞く」という考え方を持っている人は、かなり多い。下の世代がGoogleで調べるところを、お年寄りは104に電話して聞いたりする。その104にダイヤルするだけ、という簡単さ、そして104のオペレータのような柔軟さが、まだない。これは最終的には技術が解消していける種類の格差だとは思うけれど。

オンライン化は、もちろん弱者をエンパワメントする側面もあるのだけれど、一方ですでに弱い立場に置かれている人をさらに置いてけぼりにするという側面があることは、間違いないように思われる。

人間関係についての問題

続いて、社交や人付き合いの側面からオンライン化の問題点を考えていく。

新参者の不利

オンライン化が進むと、新しい人間関係を築くことはビジネスにおいても、プライベートにおいても困難になるのではないかと思う。 直接会ったことのない人よりも、何度も会って肌感覚がわかる人をより信頼してしまうのが、人間というものではあるまいか。従来の人間関係を強化する方向に走ると、あらゆる関係において新参者にとって不利な状態となる。 今年新入社員になった方とか、今年新入学の方は結構苦労しているのではないだろうか? もちろん、これが永続的なものとは思えないが、オンライン化を推し進めたときにどうやって新たな人間関係を築いていくかというのは、大きな課題になるだろうし、すでに今不利益を被っている人の数ヶ月間、あるいは数年に及ぶかもしれないが、その時間は返ってくることはない。

コミュニケーションの難しさ

顔を合わせているときでも、コミュニケーションは常に難しさを孕むものだが、オンライン化で増えるであろう文字ベースのコミュニケーションには、特に困難がつきまとう。 文字ベースのコミュニケーションは、情報量が極めて少ない。それは、余計なノイズがないという点で歓迎する向きもあるだろうし、それで十分というケースもありうるが、人間はかなり、音声や表情に頼って話をしているもので、文字ベースの対話に不慣れな人は、余計な軋轢を生み出してしまうかもしれないし、そうでない人にとってもどこか疲弊してしまうものだ。 音声や映像によるコミュニケーションでは遙かに情報量が増えるが、対面には及ばないのは確かである。 ただ逆に、直接顔を合わせて話すより文字ベースの方がコミュニケーションを取りやすいと認識している人もいるだろうということは補足しておかねばならないだろう。 また、コミュニケーションコストの増大という問題もある。少しわからないことがあったとき、隣の席に座っている人に聞くのではなく、いちいちSlackに文章を打ち込んだり、Zoomのミーティングをつくったりするのはかなり面倒だ。これは従来のコミュニケーションに多少苦手意識を持っている人にとってすらそうなのではないかと思う。

創発は可能か?

科学、芸術、ビジネスなど、様々な分野で創発という現象が起こる。何かと何かが出会うことで、その本来の総和を超えるような事象が生まれることだ。 僕は完全なオンラインのコラボレーションでも創発が生まれるのかということについて、少し疑問を持っている。元から関係を持っていた相手ならばともかく、最初からオンラインで出会い、オンラインで意見をぶつけて、そして何か予想以上のものが生まれるということがあるのだろうか。 これは単に古い考え方で、全くの杞憂という可能性も大いにある。しかし、僕が今まで参加してきたプロジェクトなどが、すべてオンラインで進行していたら、あのような形になっただろうか、と思ってしまう。ジョブズとウォズニアックが一度も顔を合わせることがなかったら、Appleはこれほどの会社になっていただろうか? 何かすごいものが出来上がってしまうときの熱狂が、オンラインでも生み出せるのだろうか。

ただ時間を共有するということ

現実の人間関係では、特にプライベートなものではしばしば、特に言葉を発することはなく、ただその時間を共有しているとも言うべき瞬間がある。 これは、オンライン化が進めば非常に贅沢なものになるのではないか。現実に無言になっているとき以上に、Zoomでの無言は凄まじい静寂に感じられる。何かを話さなければならない気がしてくる。現実の無言は必ずしも悪いものでもないのに、画面に映る 皆が押し黙っていて、イヤホンから何も聞こえないというのは非常に不安な気持ちになる。 これもまた、個人的な感情かもしれないが、オンラインではただ漫然と共にいるということは、非常に困難であるように思われる。

監視と偶然

世の中がオンライン化されることは、監視が容易になるということであり、偶然性が失われやすくなるということであると思っている。

監視社会に向けて

今でも監視社会はかなり実現できる状態にあるが、すべてがネットワークを経由するときに、データを監視してそれを利用することは、より容易になる。 会議の発言ひとつひとつに点数が与えられ、給料を左右するようになるかもしれないし、友人同士の一種のからかいが社会的に適切でない発言として社会信用スコアを減点することになるかもしれない。 こういったことは、ある意味ではより便利で、より安心で、より安全な社会をもたらすことになるだろうけれど、それが望ましい未来の姿とは思えない。

オンライン化とフィルターバブル

インターネットではしばしば、フィルターバブルが問題になる。Wikipediaの説明を引くと、フィルターバブルとは「インターネットの検索サイトが提供するアルゴリズムが、各ユーザーが見たくないような情報を遮断する機能」である。検索エンジンに限らず、SNSなどでもこのような機能は実装されているだろう。 オンライン化が進めば、フィルターバブルはGoogleやFacebookを使うときだけに起こる問題ではなくなる。オンラインの書店を利用すれときも、見たくない本は表示されないようになるかもしれないし、テレカンの最中にあまり好きでない同僚の顔は表示されないようになるかもしれない。 それは果たして、本当に人間にとって良いことだろうか? 見たくないものは、見ない方が精神には良いのかもしれないけれど、自分にとって良いものも悪いものも実際には存在するのだから、それをある程度は引き受けていくべきなのではないだろうか? そうでなかったら良いものの価値すら徐々に損なわれてしまうのではないだろうか。

偶然の少ないオンラインの世界

現実に比べて、オンラインの世界では偶然の要素が、日に日に少なくなっているように思われる。これはフィルターバブルとも関連することだ。 街を歩いていて、たまたま良い感じのお店を見つけるとか、映画館の前を通り過ぎて、上映中の映画のポスターに惹かれるとか、見知らぬ人が転んだのをたまたま目撃して救急車を呼んで感謝されるとか、そういった予測不能な偶然というものが、オンラインには少ない。 すべては予測とリコメンドの世界だ。マッチングアプリだって、きっと過去の選好データをもとによりマッチ度が高い人を優先的に表示するくらいのアルゴリズムは実装しているだろう。 大抵の場合は、リコメンドの方が良い結果が得られるだろうけれど、それでも予想外の偶然が変化をもたらすということは、あるように思われる。そして、コンピュータとインターネットは偶然を排除して、より確度の高いリコメンドを実装する方向に、継続的に進化している。 でも、セレンディピティの存在しない人生なんて、退屈すぎる気がしてならない。

おわりに

上に記した以外にも、オンラインの労働には「遊び」が少なくなってしまうだろうということとか、科学技術はWFHでは発展しづらいだろうということとか、他にも問題視している点はあるのだが、自分にとって特に重要に思われる点を挙げた。

最初に述べたとおり、明確な欠点ばかりではないし、オンライン化というよりインターネットやコンピュータがもともと孕んでいる問題だったり、感染症が流行っているからこそ生まれる問題だったり、技術が十分に解決しうる問題だったりもすると思う。 また、これも最初に述べたことだが、オンライン化がもたらす利益も多大なものだと認識している。現在の社会よりずっと活躍しやすくなる人もたくさんいるだろう。

だから重要なのは結局、選択肢があるかどうかということに尽きると思う。日本は、いろいろな側面であまりオンライン化の進んでいない社会だろう。今よりもっと、オンライン化が進んでも良いと思っている。 けれども、オンライン化は当然だが、完璧な解決策ではない。感染症が流行っているから、何でもかんでもオンラインにすべき、という風潮が強まることを懸念しているのだが、そうではなく、別にオンラインで働いてもいいし、オフィスで働いてもいい、というのがあるべき社会で、僕なんかは意志が弱いのでオフィスに行くだろうし、何らかの事情で通勤が困難ならば自宅や近所で働いてもらえれば良い。 その上で、オンライン化がもたらす弊害をできるだけ軽減するような技術が生まれる必要がある。あるいは、オンラインが社会の主流になれば、むしろオフラインの弊害が目立ってくるだろうから、それを軽減する方向でも良い。個人が自分の好きな方を選び取り、それが不利になりにくいようにすることが必要だろうと思う。

僕は一介の学生に過ぎず、しかも不勉強なものだから見識が十分でない点もあるだろうが、どうかご容赦いただき、他に考えうる問題とか、あるいはそれを解消する方法について何かご存知であればお教えいただけるとありがたい。