The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

5月6日(水) 曇のち嵐

今日は朝に起きた。その後何をしていたのか全く思い出せずいま驚愕している。こういうときはTwitterで自分のしていたことをツイートから見るに限る。

デイリーポータルZがばかばかしい記事100連発というのをゴールデンウィークの企画としてやっており、そのなかで惹かれたものを見た。

それからNASの設定をしたりiPadでネットサーフィンをしながらDiscordで友達と通話をしていた覚えはある。夕方、ご飯を食べたあと気づいたら眠っていて起きたら夜の9時すぎだった。そこから麻雀、そして面子を変えてまた麻雀をしたあと会社の話をする。

麻雀は無限に時間が溶けるのでよくない。でもあまりハマっていられないたちなのでそのうち飽きるだろうとも思っている。今までに急速にどっぷりハマったことはほぼすべて飽きている。麻雀の話を日記に書いていると鷺沢萠のエッセイみたいだな、と思う。

夕方のうたた寝が災いしてこの時間まで起きている。ゴールデンウィークも終わりらしい。まあゴールデンウィークもそうでないときも何ら関係ない生活をしていたが、今年のゴールデンウィーク、短すぎでは?

自宅から出ず漫然と過ごしていると時間が経つのが異様に早い。このまま一生が終わるのではないかという感覚すらある。そろそろ、対面で人と話せないことの弊害が見えてきた感じもする。

うまく言葉にするのは難しいけど、テキストベースのコミュニケーションだと角が立つ(けど言ったほうがいい)ようなことを言えなくなったり、あるいは言ってしまって角が立つ、というようなこととか。音声も動画も、当然テキストよりずっとマシだけど、対面には敵わない。

それと、これはまだ弊害を実際に感じているわけではないけれど、新しい交友関係というものをオンラインではつくれる気が僕には全くしない。これは古い感覚かもしれないが、どんなにTwitterやLINEでコミュニケーションを取ったとしても、それは交友関係とは呼べない。Twitterを見ていたら、友人以上に僕について多くのことを知ることになるかもしれないが、それはあくまである一面であって、実際の自分のすべてがインターネットに現れるわけではない。

そんなことを言ったら、現実の交友関係だって互いのことをすべて理解しているというのはまずないわけで、どちらも変わりないのかもしれないが、うーん、例えば生活が困窮したときに現実の友人に頭を下げて金を借りることはあるかもしれないが、オンラインでしか話したことのない人にはまず頼まないだろうというような感覚と言えばよいのか。交友関係がオンラインで生まれうるとしたら、それはそのハンドルネームの交友関係であって、ここにいる自分という人間との交友関係ではない、という感じ。

今はまだ、緊急事態宣言からひと月程度で、こういう時期だからこそ旧交を温められるといった側面の利点が上回っているが、これが長く続くようなら厳しいだろうな、とも思う。

一体いつまでこんなことが続くのか、とは誰しも思っていることだろうけど、本当に、一体いつまでこんなことが続くんですかね。でも一方でまだ終わってほしくないと思う自分もいて、家にいる間にこれくらい成長できたな、と思えないのは自尊心に関わるので、何かもうちょっと進捗を生んでから終わってほしい、とわがままなことを思う。

七対子ドラドラ満貫決める夜に論文書いてる学生もおり