The Focal Distance

概ね眠い20歳の日記

日記(2018/09/07-2018/09/10)

やることは色々とあるが、Webちくまで連載されている鳥飼茜の日記を読んでいたらなんとなく自分でもここ最近の出来事を整理したくなったので書く。

 

 

9月7日
7日の夜にまた例の件でNHKに出たらしく、知り合いからLINEが来たり、祖母からショートメッセージが送られてきたりした。

あの件でいくらか取材を受けたが、あの件に関連して取材を受けるのはもう疲れたなと思う自分がいる。僕はボランティアの専門家ではないし、ましてや同年代の学生の代表でもないし、偉そうにお茶の間に意見を開陳するのは恥ずかしくて仕方がない。インターネットでそれをやるのはあまり恥ずかしくないのに、何が違うのか自分でもわからないが。

新聞など、文章を主体とするメディアは耐えられるが、テレビは厳しい。文章を主体とするメディアは基本的にあらかじめ原稿を確かめさせてくれるのに対し、テレビはそんなことはなく、自分の意見は一部だけが切り取られて、どこが切り取られたのか事前にわからないまま発信される。

8月の終わりにもNHKが例の件を取り上げて、それは事前に連絡があったので録画しておいてあとで見たのだが、その分野に専門を持つわけでもないのにテレビに映って何かを物申している自分の姿は醜悪で、僕は初めてコメンテーターという仕事の存在意義を理解したのだった。専門性のない事柄に対しても意見を述べることを繰り返せるというのは、皮肉ではなく稀有な才能である。

 

9月8日
大学の夏期集中授業で取っていたヨットの授業の最終日で、閉講後授業で仲良くなった人たちと東陽町に飲みに行った。もともと強い方でもないのに、日に日にお酒に弱くなっている感じがする。4日間連続の運動と酔いで疲労困憊したので大学近くに住む知人宅に泊まらせてもらう。

しばらく寝た後、家主と、家主と僕の共通の知人と、煙草を何本か吸ったりくだらないことを話したりする。この前バズった作家を座標軸に当てはめて分類していくやつとか。村上龍の位置が絶対に違うことや知人の読書の嗜好が見かけに似合わずセンチメンタルなことなどで盛り上がる。

 

9月9日
自分のドッペルゲンガーを殺す夢を見て目覚める。そのドッペルゲンガーは常に僕に成り代わろうとしており、そしてとても下卑た人間で常に僕を挑発していた。僕が彼の腕をもぎ取ると、彼は「自分でやった」と周りに吹聴し、そうすると僕の腕も取れてしまうのだった。最終的には首を刎ねたか何かで殺したような気がする。

そんな、非常に目覚めの悪い印象的な夢を見たせいで、思わず「ドッペルゲンガー 夢」と検索してしまう。夢占い的なページには「ドッペルゲンガーは自分自身の象徴です」などと書かれている。あの下卑た言動は自分自身のものか、と思うと納得がいかないでもなく、また「ドッペルゲンガーがニヤニヤと微笑んでいたら、自分に人生史上最大のピンチが襲いかかる予兆です」と書かれているのを見て、非科学的だと思いつつ不安になる。フロイトではないが、夢というものに大きな関心がある。

そんなこんなで友人宅を後にし、シャノアールでブランチを食べて、しばらくのんびりしたあと母校の同期Oを誘って東京藝大の学園祭、藝祭に行った。

藝祭には去年初めて行って、その猥雑な雰囲気がとても良かったので今年もぜひ行こうと思っていたのだ。早稲田からバスで向かったのだが、ぼんやりと音楽を聞いていたら乗り過ごしてしまい、池之端からだいぶ遠回りしながら、暑い暑いと思いつつ歩く。

Oと待ち合わせしたのち、美術学部に進学した別の同期に連絡を取って、彼が「顔を出している」という出店に行く。その出店に会田誠がふらっと何かを買いに来ていて、このお祭りは会田誠がふらっと歩いているのか、と感心する。そのあと藝大の同期がお勧めという美術作品の展示をぶらぶらする。芸術の良し悪しというものがいまいち判らないが、とにかく作品を生み出して行くのは精神的に大変だろうなということだけを気にしてしまう。

Oはバイトがあるというので途中で帰り、藝大の同期もどこかに行ったので2人のヴァイオリニストが踊りながら演奏しているのを見ながら、ジンジャーエールを飲み煙草を吸う。その後、スマホの充電がなくなって来たのと、ついでにご飯でも食べに行くかと大学を出ようとしたら、ラップのようなものでぐるぐる巻きにされながら打楽器を演奏するというパフォーマンスをやっていたのでしばし眺める。うまく言葉では伝えられない。

大学を出て日暮里の方に歩く。途中、古びた台湾の甘味屋とか喫茶店とかいい感じの店がたくさんあってこの辺りは素晴らしいなと思う。谷中霊園を通り過ぎる。日暮里でネットカフェに入って充電をしばらくした後、松屋でご飯を食べる。セルフサービス型の松屋で、食券に記載された番号がやがて呼ばれて、そうしたらカウンターに取りに行く仕組みになっている。番号を呼び出す自動音声が、銀行とか郵便局の窓口のそれと似ていて、あまり食事をするところという感じがしない。

食事を終え、もうひとり別の高校の同期Fと藝大で待ち合わせる。彼は昼間は母校の文化祭を見ていて、はしごする形だ。ちょうど、藝大の音楽学部に進んだ、これまた高校の同級生がビッグバンドで演奏する時間だったので見に行く。とても盛り上がっていて、音楽は美術と違ってなんとなくわかりやすくていいなと思う。もちろん、彼らはわかりやすい音楽をあえてやっているのかもしれないけれど。その盛り上がりの裏で誰かが倒れたのかAEDを持って走る藝祭の実行委員が通り過ぎていき、悲喜交々という言葉が思い浮かぶ。倒れたと思しき人はやがて車椅子で運ばれていき、意識はあるようだったので安心する。

その後、美術学部のステージでサンバの演奏をやっているのを見る。こちらも非常に盛り上がっていて、前の方はひたすらモッシュしていて摂氏50度くらいあるのではないかというくらいの熱気。最初は後ろの方で見ていたのだがあまりの盛り上がりに前の方に割り込んで行った。暑い上に重い荷物を持ちながらモッシュするのはたまらなかったが、最後までここにいようと思いなんとか踏ん張る。最後の曲が終わって群衆の外に抜け出したらアンコールが始まって、もう一曲やっていたがそこでモッシュに加わる元気はなく、実行委員が配布していた水をいただく。Fを見失った。

Fと連絡がつき、美術学部の大きな喫煙所に向かう。先ほど登場した美術学部の同期が遠くで学友と思しき人たちにご高説を垂れているのを、二人で眺める。20時を過ぎて実行委員の方が追い出しを始めたので、「藝大なのに20時で追い出しなんて真面目だなあ」などと話しながらキャンパスを出て、ガード下にあるせんべろで知られる飲み屋に行く。初めて入ったのだが食べ物はなんとも言えない味をしており、「美味しいと不味いの中間」とFが表現していた。牛串は普通に美味しかったが。

店を出て、随分充実した1日だったなと思いながら、駅でFと別れて、所用があり早稲田の友人宅に向かう。夜遅かったのでそのまま泊めさせてもらう。

 

9月10日
朝から用事のあるという友人に起こされて目覚める。ドトールで朝ごはんを食べて、数日ぶりに家に帰る。何もすることがない。4日間連続のヨットと、昨日上野近辺を練り歩いたためか、体の節々が痛む。

国立で降りると高校時代のクラスメートとばったり遭遇する。高校を出て1年半以上経ったのに同期と会ってばっかりだなと思いつつ、少し世間話をした。家に帰ったのち、やることはあるのに何もしたくなかったので鉛筆で煙草のパッケージをスケッチブックに模写したり、この日記を書いたりして過ごす。Facebookで高校の後輩が文化祭や自分のクラスについて赤裸々な投稿をしているのを見て素晴らしいなと思う。正直な文章は人の心を打つ。

両親が何かで家におらず、小学生の妹は彼女の友人と、その親御さんと一緒に習い事に行っており、これまた小学生の弟と僕だけが家にいる形になり、ご飯代が置いてあったので出前を頼む。

出前が届いたので、久しぶりに弟と一緒にご飯を食べる。流れていたニュースで「中朝の蜜月関係」と出ていたので「蜜月ってどういう意味か知ってる?」と弟に聞いたら「仲良し」と返ってきて、子供っていつの間に成長するんだなとしみじみする。

Webメディアをつくるということ

完全に以下の記事に触発された形になるのですが、「Webサイトをつくってインターネットに公開する」という行為を10年以上やってきた立場から、「Webメディア」という形態について思うところを書きます。

 

lesamantsdutokyo.hatenablog.com

 

なお、この文章は特に上にリンクした記事で取り上げられているメディアへの批判として書いているわけではありません。「学生が、特に文章を中心としたWebメディアをつくる」というのなら、これくらいのことには気をつけたらどうか、という観点で一般論を話します。

インターネットなら楽で、安く済むといった発想はやめてくれ

文章を中心にしたメディアとして真っ先に思いつくのは書籍です。高校の先輩に「文鯨」という雑誌を創刊した人がいますが、おそらく、費用的にも時間的にも、大変なコストがかかっているのではないかと思っています。もちろん、そのコストは読者が情報に触れるためにかかるお金として、最終的にある程度は転嫁されるわけではありますが。

その点インターネットで文章を発信するのは、言ってしまえば費用的にはタダでもできます。今この記事を書いているはてなブログも基本的にはタダです。noteだってタダで書けます。WordPressだって wordpress.com で無料でホスティングしてくれます。でも「タダで書ける」というのは「タダでいい」というのは違うのです。

いいものをつくろうと思ったら、基本的には費用と時間(手間)をかけなければいけないのです。それでも、雑誌を1つ作ってあちこちの書店に置いてもらうのにかかるお金と手間に比べたら、わずかなものだと思います。

だから、それくらいのわずかな費用と時間はかけろ、ということを僕はまず言いたいです。ではどこに、どういう風にお金と手間をかけるのか、というところを扱っていきます。

サーバを借りる

Webメディアを(特に複数人で)運用するのなら既存のブログサービスではなくWordPressを使うのが鉄板でしょうから、サーバが要ります。学生のWebメディア程度のアクセスなら、おそらく月額1,000円程度のサーバで十分ですから、有料のサーバを借りてください。wordpress.com の有料プランでもいいとは思いますが。

「初期費用をできる限り抑えたい」というのであれば(学生でも月1,000円くらい余裕で支出できるだろとは思うものの)、GitHubStudent Developer Packに大学のメアドで登録すれば、AWSやAzureやDigitalOceanから数十米ドル以上のクレジットがもらえますから、それで当面は賄えます。その分、それらは既存のレンタルサーバに比べて知識が要求されますので、知識がなければ大人しく既存のレンタルサーバを有料で借りましょう。

ドメインを取る

独立したメディアなら自分たちのドメインくらい取りましょう。ドメインなんかサーバよりも更に安くて、jpドメインじゃなければ年に2,000円もしないです。jpドメインでも3,000円しないと思います。

だいぶ単純化した例えになりますが、サーバが家なら、ドメインは住所です。家と住所を他人と同一にするというのは、居候させてもらうのと同じことです。また、余所からは同一の世帯に見えます。「これは自分たちが独立してやっているメディアです」というのを主張したいのであれば、ドメインとサーバくらい自分たちで用意するべきだと思います。

もちろん、例えばあるサークルが運営しているWebメディアであれば、サークルのドメインサブドメイン(xxx.example.jp)、あるいはサブディレクトリ(example.jp/xxx/)を使用して運用するのは全く問題ありません。

しかし、適当なドメインサブドメイン/サブディレクトリとして運用するのはできるだけ避けたほうがいいです。例えば「media.waseda.jp」というURLを見たら多くの人は「これは早稲田大学に関連するWebサイトなんだな」と思うでしょうし、サブディレクトリの場合は検索エンジンまでそう認識します(サブドメインの場合、検索エンジンからの扱いは別サイトです)。「example.jp/xxx/」と「example.jp/yyy/」は、運営主体が全く別で、内容も全然異なるものであっても、検索エンジンからすれば「同一サイトの別コンテンツ」です。「example.jp」自体の検索エンジンからの評価も、サブディレクトリの場合受け継ぎます。

とりあえずSSL

「保護された通信」という表記や、緑色の鍵マーク、あるいは「https」から始まるURLをブラウザで見たことがあると思います。このブログもそうなっているはずです。あれはHTTP over TLS(/SSL)というセキュアな通信がブラウザとWebサーバの間で行われていることを意味しています。後述するSEOにも影響するので、SSLをとりあえず採用しておくのがベターです。常時SSLで調べてください。本当はだいぶ奥が深いのでちゃんと知識があったほうがいいのですが。

従来は、HTTP over TLSを行うには多少の費用が必要だったのですが、今時は無料で提供しているサーバが多いです。サーバ選びの観点として、その機能を提供しているかどうかも鑑みるといいと思います。

SEOを意識する

SEOという言葉を知らないようなWebメディアの担当者は、単位という言葉を知らない大学生のようなもので、まずいないと思いますが、Search Engine Optimizationのことです。今時はSNSを利用した手法もだいぶ活用できるため、以前ほどではないにせよ、検索エンジンはいまだにWebメディアへの大きな流入要因となります。

書籍の例で言えば、SEOというのは書店でどこに置かれるか調整するようなものです。どうせなら平積みしてもらいたいでしょう。

文章を「できるだけ多くの人に届けたい」という目的があるのであれば、SEOは意識すべきです。もちろん、限られた層にヒットすれば良いというのであれば、SNSを利用した広告の方がいいとは思いますが、それでもSEOを疎かにしていい理由にはなりません。限られた層にSNSだけで適切にリーチできるとは限らないからです。

SEOの方法ですが、まずGoogle Search Consoleに登録でもしてください。SEOについては、書籍も死ぬほど出ていますし、インターネット上にも死ぬほど情報が転がっていますから、あとはそちらを見ていただければいいと思います。僕としてはSEOという言葉も知らないのであれば、少しはそれについて調べてみた方がお得ですよ、という思いでいます。「サブドメイン/サブディレクトリ」について結構長々と書いたのも、SEOにおいて多少の意味があるからです。

アクセス解析をする

お金かからないので、Google Analyticsを使ってアクセス解析をしてください。以上です。

アクセス解析も、ただ取るだけじゃなくてちゃんと分析できた方がいいのですが、とりあえず取るだけ取ってください。後で勉強してからでもそのデータを使って分析できます。アクセス解析を取っていないWebメディアというのは、何部売れたかわからない雑誌のようなもので、そんな雑誌ありえないですし、じゃあ結局何人が読んでるの? って話になります。それにアクセス解析をすれば流入元や流入先や人気の記事がとりあえずわかるようになります。これは運営者にとって、面白いデータであるはずです。

スピードを意識する

Webサイトを開くのに時間がかかると、大抵のユーザは戻るボタンを押して元のページに諦めてしまいます。それに関する統計は調べればあります。Webサイトを開くのに時間がかかるというのは、表紙が50kgの本みたいなものです。情報にできるだけ素早く到達できるようにしないと、誰も読む気がしません。 

文章が主体なら文章を読みやすく 

おしゃれじゃなくていいですから、文章を読みやすくしてください。

おしゃれさは色遣いやロゴで十分ですから、読みやすさを大事にしてください。文庫本だって、装幀は全部違えど、中のデザインは似通っています。そこを凝る必要はないのです。岩波なんて装幀も似通ってるし…… ストレスなく読めることが一番大事です。

これに関しては、多少デザインの知識がいるかもしれません。まず伝わるデザインでも読んでください。

まとめ

勢いで書いたので、「文章を主体にするWebメディアを運用するなら云々」と偉そうに講釈を垂れている割に悪文で、すみません。

「こんなこと当たり前だろう」と思われる方もいるかもしれませんが、水が100℃で沸騰するということを知って生まれてくる赤ちゃんはいないように、当たり前のことも最初は誰も知らないので、まだ基本的なことをよく知らない、心構えもない人に向けて書いています。

ど素人ばかりが集まってWebメディア始めちゃった/始めるつもりだ、という場合はお気軽にご相談ください。

ぶっ壊れた人

たまに「変わってるね」と言われる。

僕はありきたりな話だが発達障害なので、そりゃ多少は変わっているかもしれない。

だけど、今のところ大まかにはきちんとした人生を歩んできているし、学校や職場ではない、不特定多数の集まる「社会」では割と常識的な振る舞いをしているとも思う。

 

 

そんなものではなく、世の中にはとんでもなく変わった人というのがいて、そういう人を見ると、すごいな、と思ったり、少し憧れたり、あるいは全く憧れなかったりする。

たとえば、家の近くにとんでもない濃い化粧をして、謎の派手な衣服を着て、たまにその辺の子供に怒鳴り散らしたりしながら自転車でうろついている婆さんがいる。

あるいは、大学の前のちょっとしたロータリーのようなところに佇んで、いっつもなんかの音楽を聞いているおじいさんとか。この人は文キャンおじさんとかフランスおじさんとか呼ばれて、大学ではちょっとした有名人なんだけど。

こういう「困った人」というのは結構至るところにいるし、それでも毎日生きている。

あとは、今までに挙げた人々はどうやって暮らしているのかもよく定かではないが、昔知人の女性が混雑した電車の中でいきなり男に蹴られたことがあった。そのとき一緒にいたのだが、荷物が当たったとかそういうことだったと思う。そんなことでいきなり女性を蹴るような男が、社名の入った作業着を着ていて、こんな短気な人でも社会の一員として働いてお金を稼いで暮らしているんだなと思った。

 

 

今でも結構適当に生きているつもりなんだけど、それでもまだ教育や常識といったものに囚われて行動している部分は大きい。それは別に必ずしも悪いことではないと思うのだが、思考停止に陥っているような気分にもなる。

もうちょっと自由に生きても、上に挙げたような人たちのことを思えば、多分生きていけるんだろうな、という気がしている。まあ、死んだ人は目につかないので、わからないけれど。

早稲田大好き男に「どこの学部が好き?」と訊ねられたとき、女はどう答えたらいいの?

あ、まず前提として、
貴女が早稲田大好き男を夢中にさせることが、
はたして貴女を幸福にするかどうか、それはまた別問題だけれど。
とはいえ、早稲田大好き男たちは玉石混交ながら、
IT系の超かしこい男なども多く、
したがって、釣り師たる女たちにとっては、
なかなかあなどれない釣り場です。


では、そのテの男に「どこの学部が好き?」と訊ねられたとき、
貴女は、どう答えれば理想的でしょう?
まず最初に、その男が東京大学のようなタイプのエリート大学と
あとは一橋、そして(福翁自伝を買うほどではないけれど)慶應が大好きな、
そんなタイプの場合は、
貴女はかれの目を見て、微笑みとともに質問など無視して、こう言いましょう、
「わたしが、政経に入れてあげる♪」
これこそまさに必殺の答えです。
そこで早稲田大学大好き男が、えへへ、とやにさがったならば、
貴女は、ひそかに、「リンガメタリカ」あたりを
ひそかに練習しておきましょう。これで成功まちがいなしです。


しかし、ここでは、もう少しハイブロウな(?)本格早稲田好きの男の
落とし方をお伝えしましょう。
この場合、貴女は、こう答えましょう、
「わたしは、文化構想学部が好き。
ミルクホールでよく食べるの、学生会館にも近いし、
愛の諸相も、大好き♪」
もしも貴女がそう答えたならば、
その瞬間、早稲田大好き男の目はきらりと輝き、
かれの貴女への恋心は、
20%増量になるでしょう。


なぜって、文化構想学部は、ちょっぴりお洒落な戸山キャンパスで、
文カフェには自然光が差し込んで、敷地は狭いながらも、そこがまた
ちょっぴりこぢんまりした女子大みたいなふんいきをかもしだしていて。
しかも文化構想学部がふるまっている講義は、
日本の人文サブカルチャーのスタンダードを、質高くふるまっていて、なおかつ、
朝井リョウを輩出した功績もあって。
したがって文化構想学部こそは、
本来なんの接点もないまったく縁もゆかりもない別々の世界に生きている、
岡副麻希似のキラ女系学生と、玉もあれば石も混じっている、そんな早稲田大好き男たちが、
この世界で唯一(いいえ、前身の第二文学部、系列の文学部と並んで唯三)遭遇しうる場所です。





では、参考までに、危険な回答を挙げておきましょう。
早稲田大好き男に「どこの学部が好き?」と訊ねられたとき、
貴女がこう答えたとしましょう、
先進理工学部が好き♪ 週1回は、理工学基礎実験で消えるの。」
その瞬間、早稲田大好き男の貴女への恋心は消えます、
なるほど先進理工学部は、難関学部の1つ、
学科は平凡ながら、ま、無難にまとめてあるものの、
しかし、「STAP細胞はあります!」とかなんとか無意味な博士号を授与し、
早稲田大学についての謬見を撒き散らした罪がありますから、早稲田大好き男にとっては天敵なんです。
また、もしも貴女が「法学部が大好き♪ あたし行きつけの導入講義が、学部に7つあるよ♪」
と答えたとしても、同様の効果をもたらすでしょう、
なぜって、法学部は、1980年代には東京屈指の難関だったものの、
しかし1990年代そうそうから、いやはやなんともなレベルに転落し、
いまや、同系統では、慶應法の人気に遥かに及びません。


またもしもたとえあなたが早稲田大学が大好きで、
「わたし、所沢キャンパスが好き、スポーツ科学部も好きだけど、
最高に好きなのは人科♪ 授業も幅広いし、ツイッタラーも多いの。」
と、答えたとしたらどうでしょう?
なるほど、貴女の趣味は高く、
たしかに人間科学部は、分野が various であるのみならず、
医学部への布石として将来性もあるんですけれど、
しかし、貴女の答えを聞いて、早稲田大好き男はきっとおもうでしょう、
(なんだよ、所沢かよ、馬場で飲みづらいな)って。


貴女が、早稲田大学が大好きで、多少コアな学部の名を挙げるにしても、
たとえば、社会科学部ならば安心でしょう、
なぜならば、社会科学部は、
以前に比べればおとなしい学部になったものの、それでも年々偏差値を上げ、男性にも女性にもともに愛されるめずらしい学部で、
貴女がその名前を挙げても必ずしも、
あなたが早稲おた宣言をしているとは受け取られないでしょう。
しかし、たとえば、
チャラ商と呼ばれながらすばらしいビジネスパーソンを輩出する商学部にせよ、
純粋数学から表現工学まで扱う基幹理工学部にせよ、
五輪メダリストまで在籍するスポーツ科学部にせよ、
建築学科が有名な創造理工学部にせよ、
全授業が英語で早稲田のグローバル化を支える国際教養学部にせよ、
そういう学部の名前をいきなり挙げるのは、ちょっぴり微妙。
ましてや貴女が、「教育学部社会科公共市民学専修が大好き♪ 
わたし、最初の年度の入試、わざわざ受けてきちゃった♪」
と答えたならば、どうでしょう?
これはかなり博打な答え方で、なるほど、公共市民学専修は17年度まで社会科社会科学専修、通称社科専としてお馴染みで、
教育学部にありながら、教育学というより社会科学を存分に学べる、
そんな公共市民学専修の魅力は喩えようもなく、
しかも社会科学専修にせよ、公共市民学専修にせよ、
(名前の変更が知れ渡っていないながら、とりあえず前者の知名度は)圧倒的な専修ゆえ、
あなたがそう答えた瞬間、早稲田大好き男がいきなり超笑顔になって、
鼻の下がだら~んと伸びちゃう可能性もあるにはありますが、
しかし、逆に、(なんだよ、この女、早稲田おたくかよ)とおもわれて、
どん引きされる可能性もまた大です、
なぜって、必ずしも早稲田大好き男が早稲田大好き女を好きになるとは、
限らないですから。
しかも、この答えには、もうひとつ問題があって、
男たちは、女を導き高みへ引き上げてあげることが大好きゆえ、
もしも貴女が、「北九州キャンパスの大学院情報生産システム研究科大好き♪」
なんて言ってしまうと、
そこにはもはや、男が貴女を早稲田魂を教育する余地がまったく残されていません、
したがって貴女のその答えは、
早稲田大好き男の貴女への夢を潰してしまうことに他なりません。


ま、ざっとそんな感じです、貴女の目には男たちはバカでスケベで鈍感に見えるでしょうが、
しかし、ああ見せて、男は男で繊細で、傷つきやすく、女に夢を持っています、
貴女の答え方ひとつで、男の貴女への夢は大きくふくらみもすれば、
一瞬で、しぼんでしまいもするでしょう。





では、スキットを繰り返しましょう。


「わたしは、文化構想学部が好き♪
ミルクホールでよく食べるの、学生会館にも近いし、
愛の諸相も、大好き♪」
そして、その瞬間、早稲田大好き男の目がらんらんと輝いたなら、
貴女はこう重ねましょう、
「それからね、いま、わたしが行ってみたいのは、
日本橋のWASEDA NEO、素敵な建物って噂を聞いたから。
あなたのお暇なときがあったら、わたしをWASEDA NEOへ連れてって♪」
これでもう完璧です。


そうなったらこっちのもの、
デートの日には、アイメイクをばっちり決めて、かわいい下着をつけて、
早稲田パーカーか、たんぽぽハウスの激安ワンピを着てゆきましょう。
その日から、早稲田大好き男は貴女の虜になるでしょう。
では、釣り師としての貴女の、愛の幸運と幸福をお祈りします!

補足

偏狭な人間たちによる偏狭な正義

この数千年で、人間の倫理観はそれなりに進歩をしてきたと思う。

しかし、最近では倫理的であること、正しくあることを追求するあまりに逆に正しくなくなっていることがあるのではないだろうか。

セクシュアル・ハラスメントの被害を受けたことを表明するMeToo運動を受けて、マンチェスター市立美術館の「ヒュラスとニンフたち」という絵画が撤去された。

学芸員の言によれば、いくつかの所蔵品は「女性を受け身の美しい対象物とか、妖艶な存在としてしか描写しておらず、とても時代遅れ」とのこと。

セクシュアル・ハラスメントは正しくない。これは、根本的には「その人が嫌がることをしてはいけない」という問題であって、このルールは人間社会の基本的なルールと言ってもいいと思う。例えば、私に髪を触られるのを嫌がる女性も、福山雅治にだったら喜んで、という方もいるのではないだろうか? セクハラの基準は、それぞれの関係性や性格によって異なる。「男性が女性に対してこれこれをしたらセクハラ」、逆に「女性が男性に対してこれこれをしたらセクハラ」というような明瞭な基準は存在しない。だからこそ、「こういう行為は嫌だ」と言える自由は尊重されるべきである。

そして、「女性の受け身の美しさ」や「妖艶な存在としての女性」を描いた美術作品を当の美術館が撤去する行為も、全く正しくないと感じる。私たちは美術品を楽しむ自由を持っていると同時に、楽しまない自由も持っている。私は女性の美しさというのは重要な価値であると認識しており、それを描こうとした人間の挑戦とその結果を見たいと思っているが、そうでない人(例えば先の学芸員など)もいるだろう。

だからと言って、美術品を楽しむ自由を、その美術品を楽しめない人間が奪うのは正しくないと思う。私は「これは正しくない美術品ですので、撤去します」などという他人の価値判断を受け入れるつもりはない。なぜあなたがこれを正しくないと決めることができるのか? 正しくないと感じるのであれば、その旨を言葉で主張するか、何らかの手段で表現すべきであり、「正しくないから作品そのものを展示しない」というのはおかしな態度である。

また、セクハラへの抗議の表明として「ブラック・ドレス」を着用するのが流行した今年のゴールデングローブ賞授賞式だが、バーバラ・メイヤー氏は黒いドレスを着用せず、自分の好きな服を着る自由を擁護する表明としてあえてカラフルなドレスを着用したという。全く立派な行為である。これで彼女を非難する人は本質的にセクハラを行う人と同様、他人の自由や意志を尊重せず、侵害することに喜びを覚える人である。

話は変わるが、最近自由が特に侵害されているなと思うのは喫煙である。喫煙による健康への被害については、「喫煙者が多かった世代は十分な寿命を獲得しているのではないか?」などと思うこともあるが、そのほかにも煙草の匂いや煙を不快に思う人もいるだろうし、嫌煙権は保障されるべき権利のひとつであると信ずる。ただそれと同様に、喫煙をする権利も保障されるべきではないだろうか? と認識している。例えば飲食店において、「完全な分煙」が実現し得ないと言うのなら、むしろ「完全禁煙」の店舗と「全面喫煙可」の店舗を喫煙者の割合に応じて設けて良いのではないだろうか?

また、東京都では「家庭で子供の前で煙草を吸うことを規制する条例」が4月に成立する。もちろん子供の前で煙草を吸うことは良くないであろう。だからと言って、家庭内の権利や自由を公が制限して良いのか? と疑問に思う。同条例には罰則はないものの、そういった条例が成立してしまうことに危うさを感じるのは、話が喫煙では止まらないと思っているからである。

喫煙が概ね制限された後は、飲酒や砂糖や脂肪や塩や肉食やコーヒーがターゲットになるのではないだろうか?

飲酒は健康に良くない。砂糖は健康に良くない。脂肪は健康に良くない。塩は取りすぎてはいけない。肉食は脂肪を多く含む上に動物の権利を侵害している。コーヒーは匂いが不快だし発展途上国に住む人間の人権を侵害しかねない、等々。

「喫煙は他者にまで不利益を及ぼすから」という意見もあるかもしれないが、飲酒によって迷惑を被った人はいないだろうか? 私の父親は酒癖が悪いので私は彼に酒を飲まないでほしいと思っているし、飲酒運転は他人に不利益を生じうる。あるいは、他人のニンニクの匂いは不快だし、ニンニクは他者に不利益を及ぼすのでニンニクも禁止すべきだろうか?

上の東京都の条例の論理では、「子供に炭酸飲料や糖分を多く含む菓子・塩分を多く含む菓子を買い与えることを規制する条例」や、「子供の前で飲酒をすることは将来子供の飲酒を促進する恐れがあるので規制する条例」なども成立し得るのではないだろうか? 経済力のない子供は親が買い与えたお菓子を食べる外選択肢を持っていないし、飲酒をしない親を選んで生まれることもできないのだから。

そうやって全ての嗜好品を規制した後に、何が残るだろう。嗜好品だけでなく、例えば「ドライブ」と言う趣味も、自動運転が普及した暁には「危険」と言う理由で規制されるかもしれない。そのとき人間は何を楽しみに生きていくのだろう。

私は、何らかの正義のために他者の楽しみを奪う行為は、できるだけ避けるべきであると考えている。それは偏狭な正義である。芸術を楽しむ自由。好きな服を楽しむ自由。喫煙を楽しむ自由。飲酒を楽しむ自由。焼肉やポテトチップスやコカコーラを楽しむ自由。ドライブを楽しむ自由。これらの自由ができる限り保障されるべきであると同時に、「それを楽しめない人」の自由もできるだけ保障されることが、本当に「正しい」と言うことではないだろうか?

それは例えば「裸婦画はゾーン分けして展示する」と言うことであったり、「ベジタリアンメニューを用意する」と言うことであったりする。

他者の自由を侵害して何かの自由を得るのではなく、できるだけ多くの自由を尊重できる世の中を、何とか実現したい。

面白かった本(2017)

今年も面白かった本を挙げていこうと思う。

今年もあんまり本が読めてないな。というか、新しい作家を全然発掘できていなく、というのももう好きな作家の著作を読んでいくだけで精一杯みたいなところはある。多分だんだん体力が無くなってきているのだろう。困ったものだ。

 

krg.hatenablog.com

昨年は上の記事。今年も順番は特に面白かった順とかではないです。

 

筒井康隆「旅のラゴス」 

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

 

面白い。というかもっと早く読むべきだった。筒井康隆は「家族八景」とか「最後の喫煙者」とか「文学部唯野教授」とかから入ったクチなのでなんというか皮肉屋なのだと思っていたけれど、旅のラゴスは「本当に筒井康隆が書いたのか?」と思ってしまうくらい真っ当に素敵な物語。

人生とは何か、技術とは何か、旅とは何か。旅のラゴスを読むといつでも壮大なスケールの世界に想いを馳せられる。

伊賀泰代「採用基準」

採用基準

採用基準

 

かの有名ブロガー「ちきりん」ではないかと専らの噂になっている伊賀泰代が、マッキンゼーにおける人事の経験からコンサルにおける採用基準などについて記した本、と思いきや、実際採用云々のエピソードも含まれているのだが、リーダーシップについての話が結構な割合を占め、そしてそこの主張がなかなか良いと感じた。

具体的にはリーダーシップっていうのは役職的なリーダーだけが持っているべきものではないんですよ、全員がリーダーシップを持って行動しなきゃいけないんですよ、といった感じ。これはインターン先で社員さんに勧められて読んだ。

伊藤計劃虐殺器官」 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

僕はSFはそれなりに好きなので、伊藤計劃の名は昔から知っていた。書店で著作を手に取ったことも何度かある。しかし今年に入るまで実際に読むことはなかった。これは昨年も同じことを書いたが、やはり本というのは時宜を得られるまで読むことはできないし、その時が来たらすらすらと読めるものなのだろう。不思議だ。

というわけで虐殺器官を今一度手に取ったら読めたのでそのまま購入した。そしてその勢いでひたすら読んだ。面白かった。これがデビュー作か、と思うと凄まじい。

ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考」(丘沢静也訳)

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

 

「論考」である。難解である。理解できたとは到底言えない。この本を生み出す知性とはなんなのだろうと思わされる。「これによって哲学の全てが解決した」とヴィトゲンシュタインは当時思ったらしいがマジでクールじゃないか。私などなんと凡庸な能力の持ち主だろうか。ちなみに岩波とかも出してると思うけれど安定の光文社古典新訳文庫を購入。同文庫は翻訳が本当に良質な気がしているので頑張ってほしい。

「論考」の最大のいいところは、何かあった時に「おいおい、俺の本棚には『論考』があるんだぜ?」と心の中でマウンティングできるところである。間違いない。

鷺沢萠葉桜の日

葉桜の日 (新潮文庫)

葉桜の日 (新潮文庫)

 

鷺沢萠は去年の記事に書いていると思い込んでいたが(そして去年の記事に書いた作家はなるべく出さないようにしているのだが)、出ていなかったので喜び勇んで出す。

彼女のエッセイは確か去年から読んでいたと思うのだが、実際彼女の小説を読んだのは今年に入ってからだしちょうど良い。というわけで葉桜の日である。この本には短編が2本収められていて、表題作の「葉桜の日」と「果実の舟を川に流して」である。私が特に感銘を受けたのは後者で、この作品は進学校に進みながらレールから外れ横浜の夜のお店で働く青年を主人公としている。鷺沢自身も学芸大の附属中から雪谷高校を経て上智大学に進学しながら、(彼女のエッセイから推察するところ)遊び呆けていた人間である。結果として大学を除籍になっている。作者が主人公の青年の心情として作者自身の感情を描いている感じがどことなくする。私もレールを踏み外しかかっているので大いに共感してしまうのだった。

この本に収められている作品は、どちらも20歳とか21歳で書かれたものだったと思うが、その年齢でこれを書く筆力は圧倒的だ。余談になるが鷺沢萠アンサイクロペディアは一見貶しているようでこれは結構な彼女のファンが書いたのだろうなと思う。愛されている。自殺なんかするべきじゃなかったのに。でも彼女が私の6歳の誕生日に命を落としたために彼女のことを知り、彼女の著作を読んでいると思うと感慨深い。とにかく、私にとって鷺沢萠は特別な作家だ。

オルダス・ハクスリーすばらしい新世界

ハヤカワはいい仕事をした。このディストピア小説の傑作を大森望が翻訳するなんて夢のようではないか。多分今年はカズオ・イシグロの作品で儲かっていると思うので何よりだ。

1984年」と同様のディストピア小説ではあるが、1984年が見るからに生きづらそうな世界なのに対してこちらの世界は一見かなり「幸福」な世界である。なんせ、副作用のないドラッグ的なものをキメて幸せな気分になってフリーセックスをしましょう、的な世界なのである。その実、この世界は徹底的な管理や抑制に基づいたディストピアでは確かにあるのだが、私が今生きている現実の世界、飢餓や貧困や戦争や暴力の絶えない世界と比べれば、ほとんどの人にとっては作中の世界の方が「幸福」なのではないか? と思わされるのだ。真実や知性というものは、平和や幸福がある程度社会に実現して初めて重要になるのではないだろうか。多くの人間にとっては、科学のシステムなんかより明日のご飯があることの方がずっと大事なのではないか、というようなことを考えさせられた。

小林章「欧文書体」・「欧文書体2」 

欧文書体―その背景と使い方 (新デザインガイド)

欧文書体―その背景と使い方 (新デザインガイド)

 
欧文書体 2 定番書体と演出法 (タイポグラフィの基本BOOK)

欧文書体 2 定番書体と演出法 (タイポグラフィの基本BOOK)

 

ずっと読みたかったのだが、大学の図書館にあった。 高い学費を(親が)払っている甲斐があるというものである。

この本から得られるたった1つの真実。書体は文化である。

日本戦没学生記念会きけ わだつみのこえ

きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

 

戦争によって没した学生たちの手記をまとめた本。有名すぎるので今更紹介するまでもないのかもしれないが。

これを読んで戦前の日本にも民主主義の精神はきちんと存在したのだと思った。国民には、少なくとも高度な教育を受けた国民には民主主義の思想は存在していたのに、国家には存在しなかった。その残酷な失敗から私たちは何を学んだだろうか。そしていつの時代も学生は私たちの世代と大きくは変わらないような青臭いことを言っている。

手記を遺した学生たちが、例えば20年後に生まれていたら彼らは学徒出陣なんかで命を落とすことはなかっただろう。学生運動なんかに参加して立てこもりでもやっていたかもしれない。

その時代に生まれたというだけで人生を翻弄される。その時代に生まれていなかったら孫に囲まれて死ねたかもしれないのにその時代に生まれたがために海の藻屑となって死ぬ。私という一個人には、その「時代の流れ」を変えることは難しい。今のところ世の中はそんなに不穏でもないが、これからどうなるかはわからない。私とてこれらの手記を遺した学生のように戦禍のなかに死ぬのかもしれない。

人生って人間には全然どうにもならない部分があるな、と思って絶望してしまう。戦争だけが不幸ではないし、戦争によって幸福になる人間もどこかにはいるのかもしれないが、戦争は少なくとも起きて欲しくない、と自然に思う。

 

他にも読みはしたのだがいささか疲れてきたのでこの辺で終わりにする。気が向いたら追加しようと思う。

 

追加(2018-02-11)

テッド・チャンあなたの人生の物語

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

ひどく良質なSF短編集。「あなたの人生の物語」は確かによくできているが、個人的に一番好きなのは「顔の美醜について」、次いで「理解」。

 

今年買ったのに積ん読になっている本や、ずっと読みかけている本がたくさんあるのでそういった本の一部は来年以降まとめられたらいいなと思う。来年も素敵な本に出会いたい。

国立の話

久しぶりにロージナ茶房に行き、国立を散歩したので色々と思うことがあった。

国立は僕が幼稚園から小学校にかけて住んでいた場所の最寄駅であり、中学の時通っていた塾がある場所であり、高校生活を送った場所である。

という訳で、大学に進学して実に久しぶりに国立という街から離れた生活を送っているのだが、だからこそ今国立を訪れると様々なことを思い出す。

僕の今までのロマンス(死語)も悪友(死語)とのひとときも受験勉強もほとんどすべて国立を舞台にして行われた。phaさんが「鴨川の河川敷を歩くと数メートルおきに思い出が浮かんできて危険だ」みたいなことを書いていた記憶があるが、僕にとっての鴨川の河川敷は大学通りであり、一橋大学であり、谷保第一公園だった。

駅前のマクドナルドでどれだけ無益なおしゃべりに興じただろう。なっくるでどれだけのラーメンを食べただろう。谷保第一公園でどれだけ授業をサボっただろう。深夜の一橋大学でどれだけ悩みを相談しただろう。サイゼリヤでどれだけ文化祭の話し合いをしただろう。隙があればバンバンで歌い、たまの背伸びでシュベールに行き、大学通りや富士見通りを練り歩いた。

国立は小さな街だが、確かな雰囲気のある街だった。青春時代を国立で過ごせたのは僕の人生にとって良いことだったと思う。

だからこれからも僕は国立を時々訪れるだろうし、その度に僕は色々なことを思い出してしまうのだろうし、年齢を重ねることで国立の新しい側面を発見できたら良いなと思っている。