The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

私はいずれ糾弾される

早川書房から『「社会正義」はいつも正しい:人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』という本が刊行された。その訳者のひとり、山形浩生による解説が早川の公式noteに掲載され、それが物議を醸している。

私はそのnoteをはてなブックマークの「ホッテントリ」で知って読み、なるほどこういう本が刊行されるのか、面白そう、という程度の感想しか持たなかった。しかし自分のTwitterのタイムラインでだんだんと、解説文や訳者、出版社への非難が目につくようになった。

いわく、「本は読んでないけど、この解説文を読むだけで吐き気がする。」1、「山形先生、かつての「WIRED」のころから、「この人どっちやねん」と思っていましたが、やっぱりあっちでしたね。」2、「これを早川書房が出版するということにめまいがする。マジでどうかしてるよ。」3等々。

そうした反応を目にしながら、私はいずれ糾弾されるだろう、と思った。私はいずれ糾弾される。私はあのnoteを読んでも吐き気を覚えなかった。問題があるとすら感じなかった。しかも私は自分を左派だと認識していて、そうしたツイートが目につくようなタイムラインを構成しているのに。私は勉強不足で、間違っている。私はいずれ不用意なことを言って非難される。私は早川書房や山形浩生のように影響力があるわけではないから、実際には糾弾されるほどのことはないかもしれないが。


私は早稲田大学で五年間を過ごし(中退したが)、社会科学系の学部にいたのだが人文科学を専攻する友人が多く、自民党を支持している人より共産党を支持している人の方が周囲に多いような環境で過ごしてきた。私自身、共産党を積極的に支持しているとまでは言えないが、何度か共産党の候補に投票したことがあるし、少なくとも自民党に投票したことは一度もない。

検察庁法が改正されるとなれば反対し、国葬を実施すると決まれば自殺した公務員のことを思って怒った。私は生まれてから数年間を母子家庭の子として育ち、発達障害の当事者でもあるから、もちろんそれで他のマイノリティのことがわかるわけではないにしろ、少なくとも弱者や少数者に対してつねにそれをエンパワーする側にいたいと思ってきたし、東京出身で私立大学に奨学金なしで通い(継父に資産があったのだ)、男性である自分の強者性を申し訳ないと感じてきた。

それでも、今までにもときどき、ついていけないと思うようなことはあった。「これはそんなに目くじらを立てるほどの問題だろうか」とか「これではミイラ取りがミイラなのではないか」とか。私は単に穏健なリベラリストというわけでもなく、分野によってはリバタリアンに近いような意見を持っていることもある(一方で福祉国家を否定はしない。共産主義が人類には早いように、新自由主義も人類には早いと思う)から、それは仕方ないのかもしれない。


正直に言って、早川書房のnoteに対する反応にも、(すべてではないが)ついていけないと感じた。山形は、「社会正義」運動がもたらす批判について以下のとおり記している。

批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。(前掲・早川書房のnoteより)

私には、Twitterで目にした反応がほとんどこれに近いもののように思われる。たとえば「角川に続いて早川の本も買えなくなるとわな…」(ママ)4というツイートがある。早川書房から問題があると思う書籍が出たら、早川のほかの本も買えなくなるというのは、逆にどういうつもりなのだろう。たとえばDHCのトップがヘイトをやめないからDHCのサプリは使わないというのとは、次元が違う話のように思う。「早川書房は私が問題のないと思う書籍だけを出しなさい」という主張との距離はどれくらいあるだろうか? それはどれほど妥当なものか。扶桑社から出ている本も良いものは良いし、みすず書房から出ている本もだめなものはだめだ、というのが知的に健全で(そして当たり前の)態度ではないか。

ほかにもまだある。本を読まずに、その解説を読んだだけで「吐き気がする」と腐すことで、あるいは自分と異なる意見を持つ人間を「あっち側」と形容することで、差別が解消されるのか。それが世の中を良くするということなのか。その発言がすべての人が生きやすい世の中につながっているのか。あなたはそう信じるのか。私はそう思わない。それは批判というより糾弾である。書籍を読んだ上での根拠のある批判はとても価値のあるものだと思う。それは社会をより良いものにするための建設的な過程だろう。

私は、建設的でない批判はするなとか、Twitterで安易に糾弾することをやめろと言っているわけではない。それは自由だ。様々な条件からそれが精一杯の反応であることもあるだろう。私だってそんなことをしてしまうことがある。きっと自民党の政治家の発言を報じるニュースにまさに、「吐き気がする」と反応したことすらあるだろう。でもそこには大した正しさはない。それでよりよい未来が訪れることはない。私は自戒を込めてそう認識せざるを得ない。ただ「吐き気がする」という言説を見て吐き気がしない人は何を考えればいいのか? 「私が吐き気がしないのは、勉強不足でこの人が問題にしている何かがわかっていないのだろう」か「この人は何らかの思想に支配されていて、それ以外の考え方に触れると吐き気がするのだろう」のどちらかしかないと思うのだが。自分が身につまされるような経験をするまで、このことに気づかなかった私は馬鹿だ。


私の目は曇っている。私は目覚めていない。でも、それを咎める人たちの目が曇っておらず、目覚めているとも思わない。それでいて、一部の人は自分の目は曇っておらず、目覚めていると信じているように見える。私はそれは危ういと思う。これは冷笑に過ぎないのだろうか?