The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

使命と狂気の世界

UPLINKの浅井隆氏がパワハラで告発されたのを見て、その告発が真実であるという前提で、思ったことを書く。
今から書くことは、UPLINKの実情がこうであったと述べるものではない。憶測で書かれた、最低の文章であると心していただきたい。もう一度言う。憶測で書かれた、最低の文章だ。

浅井氏のことを特段擁護するつもりもない。私は映画館にそこまで思い入れがあるわけでもない。UPLINKはいいところだし、映画館以外にやっていることも素晴らしいと思う。だけど、そもそもすべての映画館は上映中に煙草が吸えないのでだめですね、くらいに思っている。

なお、以下の文章では、部分的に「パワハラ」という言葉で本来のパワーハラスメントと、労働環境の悪さを一緒くたにしてしまっているが、これはUPLINKを告発した方々がその2つの問題を「パワーハラスメントを裁判で訴える」と総称しているためである。また、文中の「彼ら」という表現は、本来の日本語の意味に則り、性別を区別しない三人称として用いている。

前置きはこれくらいにして、本題に入る。


我々が享受している世の中の素晴らしさという価値は、大抵誰かの無理によって成り立っているのではないか、ということを今一度考える必要がある。

例えば、スタジオジブリ。アニメ業界というのはジブリに限らずブラック気味だけれど、宮崎駿や高畑勲は、かなり社員に無理を強いていた印象がある。労働時間という定量的な部分もそうだし、定性的にも彼らの物言い、特に高畑のそれはおそらくパワハラと言えてしまうだろう。我々はその無理によって生み出された傑作を呑気に享受しているわけである。

彼らが従業員に労働時間に見合った対価を支払っていたら、あるいは労働時間を軽減するためにより多くの人間を雇っていたら、当然制作費は上がり、それではペイできないという判断が働いて、結果的に我々の多くは彼らの作品を見ていないかもしれない。(なお、スタジオジブリは業界内ではむしろ待遇改善に積極的であったことは付記しておかねばならない。)

電通なんかもそうだろう。電通は労働環境以外でも何かと批判されることが多いが、それでも彼らのつくる広告その他のクリエイティブに素晴らしいものがあるのは事実である。それで人が死に追いやられたことは忘れてはならないにせよ、私はそのようなブラックさを無条件に非難できない。

あるいは演劇。地点の三浦基氏がパワハラと不当解雇で告発されたのは記憶に新しい。演劇は、地点なんかにはもちろん到底及びもつかない、単なる学生演劇に過ぎないけれど、私も友人たちとやったことがある。
パワハラ的な物言いはしなかったにせよ、労働時間とそれに見合う対価という観点で考えればかなりブラックだったのは否めない。それが問題にならないのは、参加してくれた人たちもそれをやりたくてやっているからだろう。

他にもまだ挙げられる。夢の国と呼ばれているテーマパークだってパワハラで訴訟まで起きているし、素晴らしい製品を数々と生み出してきたスティーブ・ジョブズの社員に対する非道な言動は有名だ。

使命と狂気

「やりがい搾取」という言葉が流行ったが、世の中に素晴らしさという価値を提供しようとする組織というのは、結構な割合でやりがい搾取によって成り立っている。それを始めた人たちには、使命がある。それを果たさなければならないという思いがある。

最初のうちは、「自分(たち)がそれを果たす必要がある」と思う人しかいないから、やりがいによって搾取されているなどとは思わない。彼らはきっと、使命に殉死する覚悟でそれをやっている。どんなにホワイトな労働環境で知られる企業だって、初めのうちは、創業者たちは昼も夜もなく働いていたに違いないが、誰もそれがブラックだとは思っていない。自らの使命感に突き動かされたが故の長時間労働まで、制限できるだろうか。

そのうち、事業が拡大するにつれて、その果たそうとしていることに共感する人たちが増えて、実際に共に働くことになる。だが彼らは、その実現に貢献しようとは思っていても、殉死しようとまでは思っていない。もしそう思っていたら、自分で始めているだろう。彼らは正常な考え方をしていて、だから、搾取されている、と思う。進歩的なことを言っているのに、素晴らしいものをつくっているのに、内情はこんなひどいのか、と失望する。彼らは間違いなく被害者である。

だけれども、おそらく、それを率いている人間たちにとって、使命の前では権利や思いやりなど、ほとんどどうでもいいことだろう。使命の実現より優先されるべき価値など、彼らにはない。その行い自体が、実現したい使命と矛盾していたとしても。使命感は、大抵の場合、自ずと狂気となると考える。その狂気から、素晴らしいものが生み出される。そして、他者にも長時間労働を強いる。それが無理ならば、使命に殉死できないのならば去れと言う。

その過程で、長時間労働を強いるにとどまらず、使命の実現に対して不十分な貢献しかしていない(と彼らが思う)他者に対して、厳しい言葉を投げつける人もいる。いや、厳しい言葉どころか単なる罵詈雑言と化している場合もあるだろう。それを擁護したいとは思えないけれど、その気持ちすらわかってしまうような気もするのだ。「自分の邪魔をするな」という怒りかもしれないし、あるいは「もっと本気でやれ」という激励かもしれない。「お前もこれを実現したいんじゃなかったのか」という疑問かもしれない。もちろん、それが暴言として出てくることは、擁護できない。

正当な方法で素晴らしいものを提供できるか

こんな時代遅れの、どうしようもないやり方ではなく、みんなが正当な権利と適切な労働時間と対価を保ちながら、素晴らしい何かを作っていく方法もあるのかもしれない。私はそのようなパターンについてあまり知らないけれど、その場合、我々は演劇の公演に2万円、映画を見るのに5,000円くらい支払わなければならないのではないだろうか。やりがいの名の下に搾取しているのは、それを率いている人だけではなく、それを享受している我々でもある。

また、そのような方法があったとして、本当にそれを絶対に適用すべきなのか、適用できるのか、と懐疑的に思う自分もいる。いくつかその理由を説明してみる。

まず、(1)使命感に突き動かされた無謀な働き方自体は、全否定できないと思うこと。全般的にはホワイトな働き方をしている集団ですら、場合によっては、ものすごく働くことがある。例えばホワイト企業として知られるGoogleだが、彼らは2011年の震災のとき、Crisis Responseのサービスを通常の労働時間内だけで提供してはいないだろう。

もともと存在していたサービスとは言え、それを日本において提供するのには、あるいは関連する機能を追加するには時間が必要だっただろうし、実際、Googleのブログにはこんな記述がある。「携帯電話版パーソンファインダーは 11 日の 23:50 に公開され、13 日(日)午前 2 時頃には携帯電話番号での検索もできるようになった。」

もちろん、彼らは継続的にこのような勤務体系で働いているわけではないだろうし、その使命は短期的なものだから、問題のレベルが違うが、UPLINKその他の組織で起こっているのは、このような使命感に突き動かされた無謀な働き方が常態化したもの、と捉えることもできるのではないだろうか。私は、そのような働き方を完全には否定できない。もちろん、他人に強制するのは良くないが、その使命に共感して働くことを選んだならば、そうせよ、と思う人間がいるのもわかってしまう。

次に、(2)使命の種類によっては、労働環境を改善しづらいこと。最初の方で、スタジオジブリについて、「彼らが従業員に労働時間に見合った対価を支払っていたら、あるいは労働時間を軽減するためにより多くの人間を雇っていたら、当然制作費は上がり、それではペイできないという判断が働いて、結果的に我々の多くは彼らの作品を見ていないかもしれない。」と述べた。

しかし、後者はそもそも実現できないのではないか、とも思う。ジブリが仮に10,000人の従業員を持っていたとしても、ジブリは同じクオリティの作品を提供できただろうか。ジブリは、少数の監督が、その思うところを(これまた少数の)内部のスタッフによって実現するという方法で作品を制作しているように思われる。スタジオジブリの従業員数は、多いときでも300人程度だった。制作系のスタッフは、半分を超えない。スタッフが増えても、監督が増えなければその目線は行き届かないし、またそもそも監督の満足する技量のスタッフがどれほどいるのか、という問題もある。

最後に、(3)素晴らしい何かに正当な対価を支払うようにしたら、我々の手には届かないこと。これは映画やアニメや演劇だけの話ではない。例えばAppleは、本社でも決して(シリコンバレーの企業にしては)待遇の良い方ではないが、その上海外の下請け工場が安く労働力を提供して、やっとiPhoneが10万円で買えるのである。iPhoneが自らの手に入るまでに関わるすべての人々に正当な対価が支払われるようになったら、一体iPhoneはいくらになってしまうのだろうか。

以上に記した3つの理由により、「みんなが正当な権利と適切な労働時間と対価を保ちながら、素晴らしい何かを作っていく方法」はかなり少ないのではないかと思う。それをある程度実現していそうなのは、ピクサーだろうか。しかしピクサーのやり方では、きっと宮崎駿の使命は実現できなかったに違いない。

終わりに

いささか複雑になってしまったが、論点を整理すると、UPLINKの浅井氏が告発された問題として、そしてスタジオジブリや電通や地点などにも共通する問題として、(A)パワーハラスメントと(B)労働環境・待遇の悪さがある。(A)と(B)は、部分的に原因を同じくしている。原因は、「使命の実現より優先されるべき価値など、彼らにはない」という狂気と憶測する。だから、その実現について自分の満足がいかなければ、社員に平気で暴言を吐く。暴言については、私は擁護しないが心情は理解できるような気もする。そして、その狂気によって、(低い賃金で)長時間働くことが常態化してしまう、という問題が起こる。(B)については、その使命と狂気だけが問題の原因ではなく、それが生み出す素晴らしい何かを享受している我々にも原因がある、ということである。

なお、冒頭で記した通り、これは単なる憶測で書かれた最低の文章である。浅井氏は、単なる性格破綻者で、大した使命もなく、綺麗事を言って金をせしめることを考え、部下に対して非道な言動を行っているだけの人間という可能性だってある(私にはそう見えなかったが、そういう人間は得てして、自分を取り繕うのが上手でもある)。

また、私はパワハラの被害に遭われ、劣悪な労働環境を強いられた方々を非難するつもりはない。彼らが努力していないだとか、真面目じゃなかったんだとか、そんなことは全く思わない。むしろ、負担になるであろうパワハラの告発に踏み切るのだから、自らの思うところのために努力したいという気持ちも、それを実現する能力も、普通の人よりずっとあるだろう。そして、こんなのは不当だというのは正しい。特に暴言については否定されて然るべきだと思う。暴言は、使命と狂気を肯定した場合ですら、必須とは思えないからだ。

ただ、個人的には、価値観の違いではないか、と思うだけだ。誰かにとっては、使命の実現より優先される価値などない。一方、ほとんどの人は、誰かの人格と権利を侵害して実現する使命など意味があるのか、と思うだろう。私は前者の価値観を(本当なら否定せねばならないのに)否定しきれないというだけで、後者も否定するつもりはない。


我々には2つの選択肢がある。

ひとつは、使命と狂気の世界を許容し、そのために殉死しようとする人々を認めて、そうでない人はその世界を去ってもらうこと。そして素晴らしい何かが世に出て、今まで通りそれを享受する。

もうひとつは、使命と狂気の世界を否定し、誰もが正当な権利と、良好な労働環境と待遇を得られるようにすること。そして素晴らしい何かが場合により世に出ないことも、値段が高くなってしまうことも受け入れる。

後者の方が倫理的なのは間違いないが、前者を選んでも、後者の考えに立つ集団は制限されない。逆は違う。

そして、後者を選ぶとき、我々は、素晴らしい何かに高価だとしても正当な対価を支払う覚悟があるのか。

あるいは素晴らしくても正当な対価を支払っていないであろう何かを拒否する覚悟があるのか。

そして正当な対価を支払っているが故に高価になり、手の届かない素晴らしい何かを諦める覚悟があるのか。

正当な対価を支払おうとすれば高価になりすぎるために、素晴らしい何かが世に出ない可能性もあるが、それを受け入れる覚悟があるのか。

最後に、今まで触れてこなかったが、使命と狂気の世界は、文化産業やクリエイターだけのものでは、当然ない。例えば消防士が、日常的にもそして有事の際には特に、自らの危険を顧みず、あるいは長時間労働を耐え忍び、我々の生命と生活を支えてくれているのは、彼らの使命感に依って成り立っているものだろう。

使命と狂気は表裏一体であり、その狂気によらなければ実現できない使命というものがあることを、私は否定できないし、後者を受け入れる覚悟も私はまだ持っていない。

参考