The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

宮沢章夫先生のツイートについて

もう3日もまえのことになるが、劇作家で早稲田大学文学学術院教授の宮沢章夫氏が以下のツイートをしていた。

午前2時半くらいに投稿されているのだが、これを見てから1時間くらいずっと思い悩み、よっぽどリプライで問いただしてしまおうかと思ったが、私が宮沢氏の立場だったとして、30も下の学生からリプライで以下のことを問いただされたらかなりへこむと思ったのでやめた。

だから単にツイートを連投して気持ちをぐしゃぐしゃと書き殴っていたのだが起きてから恥ずかしくなったので消した。でも、3日経ってもまだ微妙に気が収まらないので、ツイートを連ねるのではなく、もう少し整理して書くことにした。


先のツイートは、言っていることも現代的な価値観にはかなりそぐわないと思うし、個人的にはあまり好感を覚えないし、書かれている内容だけで十分怒りに足ると思う人もいるだろうが、私が何より怒りを覚えたのはこの発言の仕方である。

何が「あまりに失礼なのでやめました」だ、と思う。本当に失礼だと認識しているならばこのツイートもしないべきだろう。逆に、いやこれくらい言っても許されるでしょ、面白いでしょ、と思っているならば、「思わず写真を撮り『Photoshopは偉大!』と投稿」してしまえばよかったのだ。なんだこの中途半端な言い方は。

私見に過ぎないが、大方、これは面白いと思うけど、これやったら燃えるだろうな〜、でもすげえ言いたいからちょっと遠回しにしておくか、くらいの感覚なんじゃないの、と思ってしまう。実際には違うのかもしれませんけどね。

そういう気持ちだったとして、私にもそういう機会は訪れるから理解できる。でもこんな安直な、「ツイートしようと思った、ということをツイート」なんて迂回の仕方はしない。実際にはしてしまっているかもしれないけど、したくない。そんなのTwitterで何度も見たよ。仮にも高名な劇作家で、早稲田大学教授というご立派な肩書きのある人間なんだからもっと工夫してくれないものか。

まあ、たかがTwitterにそんなことを求めても仕方ないのかもしれないけど、ツイートひとつでも劇作家、言葉で食べているひとの発言なんだと認識されることを、私なんかが言わなくても十分わかっていると思うけれど。


繰り返しになるが、本当にそれが面白いと思っているのなら、写真つきでPhotoshopは偉大、と言ってやればよかったのに。私はそれを面白いともたぶん思わないし、賛同もしないけれど、己の信念や感性に恃み、直截な物言いをする人はとても好きだ。仮に考えがまったく合わないとしても、その人の言葉は聞く価値があると思う。

いや、ストレートな言葉だけが優れているというわけではないし、迂遠ゆえに効果を発生する表現があるのも知っている。私はそういうのも好きだ。しかし、こんな言い方は、先ほど述べたとおり安直すぎるし、ちょっと卑怯なんじゃないか。

いささか話が飛躍するが、先のツイートを見たとき、劇作家の大学教員がこんな物言いをはばからない国だから、政治家のあのような物言いもまかり通るのだな、となんとなく納得させられた。どちらも言葉を裏打ちする信念のようなものがないように思われる。自分の考えを誠実に話せとかそういう次元の話ではない。

別に思ってもないことを言ってもいいし、どちらもそれが必要な職業だと思うけれど、端的に言えば、自分がそれを発言することになんの信念もないから安直な迂遠さに走り、または会話が成立していないような答弁を平気でできるんじゃないの、ということだ。そういう人を相手にしては対話の土俵にも立てない。

仮に氏が、20代の学生を怒らせ氏を反面教師にしようと考えさせることを、あるいは政治家が、彼らとは対話のしようがないと思わせることを、それぞれ狙っているのであれば、彼らの目的は非常に効果的に達成されており、やはり言葉で食べているだけのことはあるな、と思わされるのだが。できればそうであればいい。


(追記 2021-07-08 20:15) 怒りに身を任せて書いていたら、写真とともに「Photoshopは偉大」と言うことそのものの迂遠さについてまったく触れないで論を終わらせてしまったので、ちょっと欠けている感じがしますね。すみません。