The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

清潔で正しい、理想的な社会の到来は近い

思っていることの半分もインターネットでは言えない、という感触がある。

私はそこそこいい大学の学生としてTwitterのフォロー・フォロワー関係を構築しており、現実には私の大学に通う学生はだいたいノンポリなのだが、それですらいまどきのやわらかいリベラル的な価値観をかなり内面化しているので、それに少しでも反するようなことを言えば立場がない。私は自分のことを、どちらかといえばリベラルだろうし、左翼だろうと認識しているのに、なおそう思っている。

だから、普段はごく少数の友人と直接話すときしか、とくに露悪的と思われることは言わないのだが、なんだかもう真夜中だしどうでもいいやという気分にさせられたのでこの文章を書いている。(書き終わってから鑑みると、これくらいのことは普段から言っている気もする。)


既に宮崎学をはじめいろいろな人が指摘していることだが、世の中がどんどん清潔に、そして「正しく」なっている。

いま世間的に正しいとされている規範から反したことを言ったり為したりしてしまった人は、とにかく叩かれる。私もそういう言動に触れて反吐が出るような思いをすることはある。でもそういうことが起こるたびに感じるのは、どうしていま自分が正しいと思っている価値観が、そんなに正しいと思えるのだろう、ということだ。

76年前には、戦争は善でアメリカは鬼畜だった。30年前には、たばこは誰もがたしなむ嗜好品だった。15年前には、テレビでLGBTをいじるシーンはよく見られた。5年前には、女芸人は容姿の悪さで笑いを取るのが主流だった。

人間の一生より短いスパンで、時には急激に、価値観は変化してしまうということをみんな知っているはずなのに、いま正しいとされることをどうして、他人をやたらめったらと断罪できるような強度で、正しいと思えるのかわからない。

以前も述べたことがあるが、どうせ、いま20代である我々のほとんどは、おそらく2051年の若者世代からすれば倫理的でない行いや発言をしている。私なんかいまの価値観でも正しくないこと——喫煙とか——をしている。だから我々の世代がいま他人に向けている刃は、やがて我々に向くだろう、と思える。それをわかっていたら、たとえ未来永劫正しいと思っていてすら、それに反する人に鋭すぎる刃は向けられないものではないだろうか。それともその刃でやがて断罪される覚悟が、あるいは今後一生自分の価値観を時代に応じて適切に変化させ、内面化された旧弊を捨てていく自信があるのだろうか。


そもそも、世の中がどんどん清潔になっていくこと自体にも、多少の嫌悪感がある。こんなことを言う人間はいまどきのリベラルではないのかもしれないが。

なぜそのことに嫌悪を覚えるのだろう。

ひとつには、おそらく、人間がそんなに美しくあれるものでも正しくあれるものでもないと認識しているからだろう。人間は神ではない。

Twitterのインテリが理想論を説くとき、それが本当に、身内だけでなく、世の中のすべての人が己に適用しうる理想だと思っているのだろうか。私はそういう理想論を内面化できなそうな人の顔が何人も思い浮かんでしまう。そして彼らは彼らで別に悪い人間ではないということも知っている。本当にただ、生まれ育った環境とか、現在生活をまかなっている手段とか、人生で経験した物事、あるいは周囲の人間が違うだけで、別に悪い人間ではない。

私はそういう人々を、いま正しいとされている価値観、あるいはそれを基にした理想でもって、世の中から切り捨てたくない。でも、それを切り捨てかねないという感じを、どんどん清潔になっていく世の中の風潮は孕んでいる。

あるいは、「悪い人間ではないな」とすら思えないような、率直に言ってしまうとできれば近寄りもしたくない、どうしようもない人間もいる。そういった人はなおさら世間から速やかに切り離されていくだろう。でもそういう疎外は、万人が生まれながらにして人としての権利を持っているという、我々が掲げる最高の理想から最も遠い行為じゃないだろうか。

これは端的に例を挙げると、同性愛者のためにパートナーシップ条例を制定すると同時に、宮下公園を商業施設にしてホームレスを排除する渋谷区の話である。まさに「デオドラント」じゃないだろうか。そういう厭らしさに対して、見て見ぬふりをするリベラルなんかリベラルじゃないだろう、と思うし、実際にそれについて声を上げている人も何人もいたが、実のところこのような構造はどこにでもあるように思われるし、誰もがそれに荷担してしまっているように感じられる。

私は、私が嫌いな人も含めて世間から切り離されるべきではないし、個人が面倒を見る気には到底なれないような人間ならなおのこと、社会が包摂していかなければならないだろう、と思っている。包摂なんてものからは離れたいという人には、もちろんその選択肢も必要だ。


でも、Twitterなんかを見ていると、本当にみんなデオドラントが好きなんだな、と思わされる。私より遙かにリベラルな感じの価値観に立って発言をしている人も、(むしろ、そうであればこそ)デオドラント的な風潮に対して基本的に賛意を示しているように思われる。

そしてこんなことを書いている私、卑しく粗野な人間としての私は確実に世の中から切り離されていく側だろう。そして、そのときの価値観において清く正しく気持ちのいい人間だけが、社会に包摂された一級市民として幸福な生活を送るのだろう。ユートピアの到来は近い。