The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

5月17日(日) 晴

今日はミーティングがたくさんあった。ミーティングばかりか?

日記に書こうと思うことは毎日たくさんあるのだけど、ある程度疲れた夜に書いているのでその気力があまりない。Twitterに簡単なことなら書けてしまえるし。

Twitterに書いていないことで言うといい人っていうのは強いんだなと最近思う。わりと皮肉屋、あるいは冷笑家という側面があるのだけれど、一緒に働くなら絶対皮肉屋より気持ちの良い人のほうがいいよな…… と思う。

まあ、こんなことは22にもなって気づくことでもないかもしれないし、実際職場とかですごく皮肉を言うわけでもないけれど、皮肉を言い過ぎるとすべて皮肉に聞こえるという弊害があるので、程々にしよう、と思う。

まあ仮に他人のでも痛烈な皮肉とかが大好きなので一朝一夕には止められないだろうしこれからも言い続けるんだろうけど、インターネット的(というかTwitter的)冷笑に染まりきってしまうと身を滅ぼすな〜という感じがするので、皮肉を言うのもせいぜいプライベートの少数の友人のうちくらいに止めるべきなのだろうな。

それに、自分はあまりそういうことは言わないのだけれど、例えば時の政権への皮肉、とかならまだしも、全方位的に皮肉を言い始めると本当にまずいだろうなという気がする。皮肉でないユーモアをあまり知らないので身につけていかなきゃいけないな。

皮肉とは別の話としては、最近某週刊誌の報道で某編集者が燃えているけれど、僕もあの人はいけ好かないと思っていたしやったこともしょうもないので本当にいなくなっても構わないのだけれど、あれをなんとか砲とか言って持て囃すのも違うだろうと思う。

インターネットの人はよく、テレビ、特にワイドショーのゴシップなんかを蔑んだりするけれど、それと何が違うんだろう?

やったことはもちろん全然良くないし怒りに打ち震える気持ちも分かるのだけれど、うーん、別に自分もそんなに正しい人間とは思えないので他人のことをがむしゃらに叩いていられないというか。そんなにみんな正しいのだろうか? 正しい、と思っているから他人にナタを振るえるんだと思うけれど。

少なくとも今回の事件は真実ならば怒っても良いことだと思いますが、もっとくだらない事件もいくらでもあったと思う。

僕は煙草を吸うのだけれど煙草だって吸わない人からしたら他害以外の何物でもないしなあ。他人の健康を脅かしつつ嗜好品を味わって自分だけ満足するというような行いをしているので、全然、皆さんの怒りの矛先が(すでに結構向いていますけど)自分に向いてもおかしくないわけで、それはやはり嫌なので、自分もあまり他人に正義のナタを振るうのはやりたくないし、何かそういうことをしているメディアを持て囃したくもない。

あの週刊誌の中の人も、自分たちが正義を体現しているなどとはさらさら思っておらず、叩けそうな人を見つけてみんなを気持ちよくしてお金もらっているだけ、くらいに認識していそうだけど。それを正義だ勧善懲悪だと持ち上げられるのは週刊誌としてもあまり嬉しくないのではないかなあ、とも思う。週刊誌ってそういう慎ましさが良いところだと思いますし。

どうせ、我々の殆どは30年後の価値観では野蛮でありえない行いを今しているわけです(例えば飲酒も将来的にはかなり微妙なのでは? 健康はますます絶対の価値になるでしょうから)。あんまり現在的な善悪の価値を内面化して勧善懲悪していてもそのナタは将来自分に返ってくるだけじゃないのかなあというようにしか思えない。

とはいえ、怒るべきことは怒るべきことなので(例えば検察庁法改正案、とか)、すごく難しいところなのですが、多数の市民が「こいつは叩いていい」というサインが出た瞬間にけちょんけちょんに貶すというのはかなり怖いことだし、そういう精神性の行く末が「自粛警察」みたいな人間ではないかと思う。悪いことをしたら非難されても仕方ないですが、非難は別に娯楽ではないので、特にその矛先が個人に向けられているときは、慎重な態度を取ったほうが賢明ではないですかね。

そう考えると罪を憎んで人を憎まず、と言った昔の人はいいことを言うな、という感じがします。