The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

どうして独りで旅に出てしまうのか

今、独りで京都にいる。

先日、人と飲んでいて「どうして一人旅をするのかわからない」という話になった。その場には3人いて、私ともう1人が「一人旅をする派」、そして残る1人が「一人旅をしない派」だった。

酒に弱く、その場で話したことの仔細は覚えていないのだが、しない派の人が「旅行先での出来事を人と共有できないこと」を難点として捉えていた。我々する派は、「気のおけない人と旅に出るのはそれはそれで楽しいが、東京で遊ぶのを他の土地でやっているに過ぎない」(つまり本当は旅ではない)というようなことを言って反論したと思う。

それはただの酒の肴としての話題だったのだが、やけにそのことが頭に残っていて、実際のところ、なぜ一人旅をするのだろう、というのを考えてみたくなった。
今はその絶好の機会だし、旅行から帰ってきたのちにその旅についてきちんと書けた試しがないので、ホテルでこの文章を記している。

私の旅行には、あまり観光の要素はない。
初めての土地だったらそれなりに有名な観光地にも行っておくが、そうでなければ行くことはない。京都など、20回くらい来ているので、全く行かない。たまたま錦市場を通りかかることなどはあっても、そこに行くことは目的ではない。
むしろそこに住んでいる人が、普段行くであろう場所に行きたいと思っている。それは喫茶店だったり、スーパーだったり、ファミレスだったり、書店だったりする。

実例として今日の行程を紹介する。
11時15分に新幹線で京都駅に到着した。しばらく駅を散策してから、地下街の書店に行ったが、目当ての本がなかったので河原町に出ることにする。
バスに乗って、河原町三条で降りる。丸善京都本店に行き、本を買う。近くの喫茶店に入って、それを読む。
店を出て、写真屋に行きフィルムを購入する。ホテルの方角に歩く。途中、ドラッグストアでマスクを探したり、大丸で検温だけしてみたり寄り道しながら、ホテルに到着し、チェックインする。
そして今これを書いている。

以上のすべてが、東京でもできる。京都に行く必要など、全くない。このような旅行を(コロナ禍以前は)頻繁にしていた。
頻繁にするくらいだから、私はこれが好きなのだが、何が良いのかというと、見知らぬ街で普段と同じように過ごすと、徹底的に孤独になれるという点にある。

単に孤独というだけなら、東京のよく知らない街でも、あるいはよく知ってる街ですら味わうことはできるが、やはり違う。例えば新小岩など、行った回数で言えば京都よりずっと少ないし、より馴染みのない街だが、だからと言って徹底的に孤独かというとそんなことはない。
よく知っている新宿の人混みに紛れていれば、ああ、実に孤独だなあ、と思えるものの、しかしそれでも徹底的に孤独なわけではない。

京都では何が違うのか。
一番違うな、と思わされるのは、やはり言葉だろうか。その土地の人と同じような店にいても、その土地の人と同じようには話せない。私は首都圏方言の申し子のような育ちだから、京阪式アクセントなど微塵もわからない。
周りの人は、ただ普段通りに日常を送っているだけなのに、放つ言葉がいちいち私が余所者であるということを痛感させてくれる。新小岩でも、新宿でも、疎外されていると思うことはない。そこは結局、私のホームでしかない。

私が観光地に行かないのも、そこではあまり余所者であるという気分になれないからである。特に京都の観光地など、聞こえてくるのは外国語ばかりだったし、私に比べても彼らの方がはるかに余所者である。また観光地では余所者は大切なお客様なので、疎外されているなどと微塵も感じることができない。

知らない土地で、その土地の人と同じように過ごしても、所詮自分は余所者に過ぎない、ということを常に突きつけられていると、すごく感受性が鋭敏になるように思う。周囲の、「地元の人」の一挙一動を丁寧に観察してしまう。

例えば今日行った喫茶店。
中年の女性が、マッチで煙草に火をつけたあと、マッチを吹き消すまで、なぜか一瞬間を置いて、火を眺めていた。男性の一人客が「こちらへ」と案内された席が相席で、すごく戸惑った顔をしていた。店員さんはずっと「ただいま満席ですので、もしよろしければ地下をご覧ください」と繰り返していた。そうやって客を断った直後に、なぜかある二人組の客にはそう言わずに空けてあった席に通した。

このような些末なことを、どうしようもなく見てしまう。そしてこれが、すごく楽しい。
数百キロ程度距離を置いたところで、私の与り知らぬところで、何の派手さもない生活が営まれているということに、なんだか酷く感傷的な気分にさせられる。

私の旅行は逃避でもあるのだが、この土地で営まれている日常を余所者として傍観することを通して、自分が住んでいるところで起きている問題についても客観視できるような気がしている。京都の人が東京に来たら、私が今京都の暮らしを見ているのと同じような気持ちで、東京の暮らしを見るだろう。そして私の抱えている問題も、そのように傍観される存在に過ぎない。

余所者として、余所の生活を、普段ではありえないようなディテールで、傍観する。それ自体が十分に楽しいし、それが持つある種の気安さで以てして、遠く離れた東京にある問題についても考えられる。

そういう芸当ができてしまうから、独りで旅に出るのだろう、と思う。