The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

5月2日(土) 晴・暑

日記を書いたあと、睡眠薬が切れたので眠くなるに任せて『動物のお医者さん』を読んでいたら、全部読み終わり、そして朝になっていた。動物のお医者さんは本当に良い漫画だ。

昼過ぎに「コンビニ行くけどなんかいる?」という妹の声で起こされる。寝ぼけていたのでお菓子とコーラを求めたのだが、いざ起きてみると昼ごはんが食べたいのでLINEしたら、返事がないまま帰ってきた。

LINE見なかったの? と問うたら「携帯を持っていかなかった」とのこと。家を出るのに携帯を持っていかなかった、というのが小学生の感覚だな、と思う。「必要ないと思ったから」と続いた。母と連れ立って行ったので、実際本当に必要はないのだ。家から歩いて数分のコンビニに行くだけだ。でも、なんだか新鮮な感覚だった。
コンビニなら財布を持っていかず、携帯だけを持っていくことすらままある。PayPayで払ってしまうから。そういう意味で僕にとってはたかだかコンビニに行くだけでも携帯は「必要なもの」で、携帯を持たずに外に出るなんて家から20秒のポストに郵便を出しに行くときくらいしか思いつかない。

届いていたAmazon Echo Show 5で遊んだりしていたら夜になり、友達と話していたら真夜中になり、本を読んでいたら朝になった。
昨日も短歌の本を読んだと書いたが、その続きである。『世界中が夕焼け』という本。再読である。穂村弘の短歌について歌人の山田航が評し、さらにその歌評について穂村がコメントする、というスタイルの本。

これが再読であることは述べた通りだが、穂村弘の短歌をきちんと読むのは大抵孤独なときな気がする。エッセイはもっと多い頻度で読み返しているのだが。最初に穂村の短歌に触れたのは大学受験のときで、あのとき僕は(心情として)かなり孤独だった。国立理系向けの授業を取っていたのに秋口になって私立文系を志望することに決め、文系の授業を取っているクラスメートも国立志望ばかり、そして勉強を冬に差し掛かるまでほぼ全くしなかったので周りが皆勉強しているなかひとりで時間を持て余していた。そんな先行きの見えない孤独、本来すべきことをしていない不安のなかでphaのブログか何かがきっかけで穂村のエッセイを読み、そのまま短歌も読み始めた、というクチである。

大学に入ったあとも穂村弘が好きな人と付き合っていたなどで読んでいたことはあったが、気付けばあまり読まなくなった。そして今また読んでいる。先行きの見えない孤独、(同年代が就活しているなかで休学などを挟んだので)本来すべきことをしていない不安、原因は違うが大学受験のときと境遇は似ている。思うにこういうときに穂村の短歌を読む理由にはいくつかある。

まず根本的に、短歌を一人で鑑賞するものだと思っていること。世の中に歌会はたくさんあるのでそうでもないのかもしれないが、個人的には短歌と私が世界のすべてというような感覚になって読むことが多い。
次に、(特に初期において)穂村の歌が社会に対する違和とどこまでも尊大な自己愛を基軸としていること。これは自分の心情に類似している、ということが、今のような状況ではより顕著になる。つまり共感、と言ってもよい。
一方で、穂村弘は1962年生まれということもあり、(これも特に初期において)高度消費社会極まる80年代における絢爛な空虚さとも言うべき社会のムードが、大学生というある意味で最も気楽な時期に重なっているためかしばしば歌に現れること。これは僕がずっと憧れながら、とうとう手に入れられなかった暢気さであり、いわば歌を通して冷たい現実からその世界に逃避している、という側面もある。

やっぱりこういう事態だと内省的になる。日記と言いつつ日々の出来事の話が少なく、自己の内面ばかりを書いているのは出来事がないからだろう。今や自分の生活に多少なりとも変化を与えてくれるのはAmazonだけで、そういった消費による快楽だけを考えると今だって80年代とそこまで変わりないのだが、その提供元が西武百貨店からAmazonになった、というのが一番の変化だと思う。そこには消費生活の空虚な喜びに伴う豪華さや親しみといったものがなく、ただ空虚な喜びだけが単体で残っているのだ。これが本当にあの2020年かよ。