The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

4月14日(火) 晴

今日も日記を書く。

日付が変わった午前1時半頃に昨日の分の日記を投稿してからもしばらく起きていたのだが、何をしていたか全然思い出せない。多分TwitterのタイムラインとInstagramのストーリーを交互に見るなどの無益な作業に勤しんでいたんじゃないだろうか。

もしその時間、誰かと話していたりしたのだったらすごく申し訳ないが、元々エピソード記憶が極めて弱く、例えば高校の友人などと集まって「あのときああだった、こうだった」と盛り上がっているときも、「懐かし〜!」なんて口では言っているが、実際に自分で「あ、そうだったなあ」と思い出せているのは半分くらいである。
そういう意味で、日記をつけるのは自分にとっていいことかもしれない。とはいえ、この日記は出来事をあまり書いていないので、エピソードの補助記憶装置としては役に立たないかもしれない。

今日も昨日と同じく昼過ぎに起きた。驚くべきことに、母と弟と妹は最近、僕よりさらに起きるのが遅い。学校がないのを良いことに朝方までSwitchであつ森をやっているせいである。もともと、ゲームにあまりハマれないので、ずっとやっているのを見ると楽しそうで少し羨ましいなとも思う。

起きてしばらくのんびりした時間を過ごしたあと、今日は天気が良かったのでコンビニに煙草や飲み物を買いに行った。そして店の前の灰皿で煙草を2本ほど吸う。この一連の行為が最近の唯一の外出機会である。
コンビニの前で煙草を吸っていると、必ず誰かやってきて煙草を吸い始める。今日など、2本吸っている間に4人ほど来た。皆、自分と同じようにこれを楽しみにしているのかもしれない。嫌煙家の皆さんには傍迷惑な話である。

昼食に親子丼を食べ、またしばしのんびりしてから今日は仕事をした。昨日、一昨日と全然仕事に手をつける気になれなかったのは気圧のせいだろうか。それとも今日はコンサータ(ADHDの薬)を飲んだから仕事に手をつける気になれたのだろうか。どちらも影響している気がするが、いずれにせよ律儀に日記はつけているのだから我ながら都合がいいなと思う。

今日は仕事のおかげで、あるいはコンサータのおかげで無闇な考え事に耽る時間がなかったのだが、ひとつ(仕事に手をつける前に)Twitterを見ていて思うことがあった。「もう暗い話は見たくない」というような内容のツイートを誰かがしていて、なるほど同様のことを感じている人は多そうで、この日記は暗いことばかり書いているので読んだ人にはなんだか申し訳ないなあという気分にさせられた。

しかし、暗いことをどうしても考えてしまう世相である。むしろこの日記をつけていることで頭が整理され、気が楽になる感覚がある。普段から文章を書くのが嫌いなわけでもないが、毎日この分量の日記をつけられている(まだ3日目だが)のは、そうしていないと辛いからじゃないか、ということに思い至った。まあ何せ家から出ないので、刺激が全然ないのでそのうち書くこともなくなって「今日は日差しがよかった」とかそれくらいの日記になるかもしれないが。

そういうわけで、気がなんとなく塞いでいる人は日記をつけると多少マシかもしれないな、ということを思ったのだった。自分で後々見返すだけでも面白いだろうな、とも思う。こんな事態は人生に何度もあることではないだろうから。あったら困る。

そういえば、良かったこととして、以前Aliexpressで頼んだ、紙でできた腕時計が深圳から届いた。厭にカラフルで、100円玉より薄い。デイリーポータルZの記事か何かで読んで買ったのだが、馬鹿らしくてすごく良い。腕時計なのに200円くらいだった気がしている。送料の方が高かった。この時期に国際郵便が無事に届くとなんだか嬉しい。これを頼んだときは中国からきちんと発送されるかを心配していたような時期だった覚えがある。今のところ物流は滞りないようだが、日本ももうこのざまである。説明書など全くなかったので盲撃ちのように時刻合わせをした。どうせ馬鹿みたいな腕時計なので時間が狂ったままでもよかったような気もしている。