The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

科学と瞑想

以下の記事はnoteから移行したものです。

 

一般に通用することなのかは知らないが、疲れているが故に眠ることができないという状態がままある。

昨夜もまさにそれで、翌日の予定を考えると少しでも眠りたかったので、体をできるだけリラックスさせようと小一時間ほどがんばってみたりもしたのだが無駄で、「寝たまんまヨガ」というアプリを入れて無料のコースを試してみた。

普通のヨガと違って、名前の通り寝たままで行えるヨガ(ヨガニードラ)のアプリである。就寝前に行う場合はそのまま寝入ってしまってもよく、「インストラクションを最後まで聞けない」という触れ込みだった。

実際のところ最後まで聞けたのだが、インストラクションに従って意識している部分が実際に暖まっているように感じることにまず驚き、また終わった後、かなり心が穏やかになっている自覚があり、なかなか侮れないなと思った。それから少しして眠りにつくこともでき、3〜4時間程度で起きたのだが、目覚めもよかった。

そのアプリでは、バックグラウンドにヒーリングミュージックのようなものが流れているなかで、音声の指示に従って体を緊張させたり弛緩させたり、呼吸や体の部位を意識したり、あるいは実現したい願望をイメージしたりするので、瞑想とは正確には違うのかもしれないが、自ら瞑想をすることが難しい人への助けとなるような感じだと捉えた。

それで先ほど、深夜に目覚めてしまったので、眠れたら眠れたでいいし、眠れずとも心が落ち着くならそれで良いと思い、再度(昨夜より長いコースで)ヨガニードラを行った。
左の鼻が詰まっていて、昨日より気が散って浅いリラックスしか得られなかった気がするのだが、心はそれなりに落ち着き、また驚いたこととして、ふくらはぎが筋肉痛のような感じで痛かったのだがそれが消えていることに気づいた。

僕はこのことを以て瞑想やらマインドフルネスやらヨガやらは科学に基づいた医療よりすごいとかそういう方向に論を持って行くつもりはない。もたらされた体が温まる感覚や、心の平穏、痛みの緩和なども科学的に説明しようと思えばできないこともないのだと思うし、何なら単なる暗示ではないかと思ったりもする。そして何より、科学に基づいた医療でも(僕の中では)似たような体験をしたことがあるからだ。

僕はADHDの診断を受けているけれど、その治療薬のひとつにコンサータという薬がある。コンサータはメチルフェニデートという物質で、有り体に言えば覚醒剤に近い。そのために処方は結構面倒な手続きがあったりするのだがそれについては興味のある方には調べていただくとして、問題はその効用である。

「コンサータを飲んだら脳内が静かになって、普通の人はこの感覚で生きているのかと感動した」というようなことを言う人がそれなりにいる。僕はそこまで劇的な効果はないものの、服用していると確かに、普段はどんどん頭の中で考えがあちこちに発散していってしまうのに、それが少ないような感覚はある。

そこで思うのは、自分の意識とは何なのだろう? ということである。

僕はコンサータの作用機序をよく知らないし、というか科学的にもよくわかっていないのだと思うが、基本的には中枢神経を刺激して、不均衡であったり働きが弱いためにADHDを引き起こすと考えられているドーパミンやノルアドレナリンの働きを増強するという仕組みと推測されている。

ドーパミンの化学式はC8H11NO2である。このようなわりと単純な化学物質の働き次第で思い悩むことになったり、あるいはそれが改善されたりする。では今ここにある悩みは何のためにあるのだろうか?

現代に生きる人ならおよそ誰でも、脳とて物質にすぎず、感情や意識は脳を構成する細胞や脳内の化学物質の作用によるものだと、知識としては知っていると思うが、向精神薬を飲むとそれが実感としてわかる。

ヨガニードラで思ったのも同じことで、呼吸や体の緊張や弛緩といった素朴な動き、あるいは「あなたの全身はとてもリラックスしています」というナレーションによって、実際にリラックスしている(ように感じられる)という意識の単純さが、妙におかしな感じがするのだ。

意識が科学や瞑想の手法によってそれなりにコントロールできてしまうのなら、自分の意識は自分が感じるほど確固たるものではないのだろう、と思う。でも僕にとっては意識がすべてであり、脳内の考えや感情でなくとも、現実に目で見たものは意識を通じて見ているのであり、現実に聞いた音も意識を通じて聞いているのであり、現実に感じた匂いや暖かさ、そして痛みも意識を通じて感じている。

当然、現実に存在しないもの、たとえば恋人に感じるときめきも、冷や汗が出るほどの緊張も、顔が熱くなるような怒りも、夜更けに涙を流す悲しみも、鳥肌が立つ感動も、すべて意識がもたらすものである。

また、自分が行うことも(明確に意識しているかは別として、いわゆる)意識によって行われる。億万長者がその立場を得るに至ったのは、もちろん自分ではどうにもならないこともあるにせよ、基本的に意識の働きであり、数学者が歴史的な発見をするのも、人を自殺に追いやるのも同様に意識が行うことである。

認識、感情、思考や行動を生み出し、自分という存在、ひいては世界そのものを成り立たせている意識が、1錠数百円の小さなカプセルや鼻を抜ける呼吸に思いを寄せることによって制御できてしまうことが、実に滑稽だなと思う。

そのように考えると、何もかもが茶番としか思えないけれど、茶番とは到底思われないようなリアリティで意識が世界を認識し、そして笑わせ、悩ませ、自分を動かしたり動かさなかったりしてくるのだから、茶番を必死に演じて生きるしかないのだろう。そしてその茶番を演じることが生存と繁殖に有利だったからこそ、我々が今こうしてその舞台に立たされているのだろう。神も仏もない。