The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

オリンピックボランティア募集への風刺についての反省と自戒

以下の記事はnoteから移行したものです。

 

私のことをよく知っている人には、「またこの話か」と言われるかもしれない。しかし何度でもしておきたい。

去年の夏、私は東京五輪におけるボランティアの募集を題材にして、五輪に伴う様々な問題を踏まえた軽薄な風刺を投稿し、それがインターネットの一部で話題となって、最終的に新聞やテレビを含むメディアで取り上げられた。

なぜ、あれがバズったのか、わからない。風刺にしては面白くないし、わかりやすすぎる。深夜に書き上げたラブレターのように感情に任せた文章で、読み返すと恥ずかしい。実際、特に深夜に書いたわけではないが、気の赴くままに短時間でつくりあげたものである。

などと書き連ねたが、風刺の質は、この文章の本筋とは関係ない。私があれについて一番反省していることは、あんなものを書いて、ちょっとメディアに取り上げられたからと言って、何も変わらなかったな、ということだ。それはそうだ。一学生がインターネットの片隅でたかだか2日間ほど話題になる文章を書いたくらいで、何も変わらないのだ。私の言論なんかより遥かに大きい影響力と権威を持ったマスコミが、たとえば国政に関する様々な問題を追及しても、「それを定義するのは難しい」だとか「それについて決定した文書がない」などとのらりくらりと交わされるだけなのだから、オリンピックのような国家を挙げた一大イベント、莫大な利害関係者がいるイベントの仕組みが易々と変わるはずがない。

先ほど、「何も変わらなかったな」と他人事のように書いたが、実際には「何も変えられなかった」のだ。去年、NHKのカメラに向かって喋っている自分の姿をテレビで見て、なんて醜悪なんだろうと思ったのを忘れられない。そのときはその感情の理由が完全には掴めなかったが、あの醜悪さは口先だけで安全な場所からわかり切ったような批判をして、実際に足で歩いて手を動かすことのしない人間が持つ醜悪さだ、と最近ようやく気づいた。

東京五輪に関連する問題が本当に解決してほしいと思っていたのなら、気取った態度で風刺なんて書いている場合ではなかった。いくら痛快な風刺が書けても、それを見た人間が「いやあ、言いたいことを全部言ってくれた!」などといっときの気晴らしを得るだけである。半沢直樹を見て実際に上司に土下座させる人間はいない。個人の精神状態の改善にはもしかしたら役立つかもしれないが、現実の社会を変えるものではない。

せっかく、曲がりなりにも毎日新聞やNHKといった強力な報道機関から取材を受ける機会があったのだから、それを活かして、たとえば現実にその問題に対して影響力を持つ人、簡単に言えば「中の人」にアプローチすることもできたはずだ。いや、マスコミの力を借りなかったとしても、アプローチする方法はあったはずなのだ。現に、慶應の学生は入試改革の問題について、それをやった。彼は自分で協力してくれそうな有力者などにコンタクトを取り、そして彼が十分満足しているかはわからないが、私から見ればなかなかの成果を収めた。

あのときの私は、自分が書いた文章がそれなりに多くの人に読まれて、もちろん批判もあるものの、私に届く多くは肯定的な意見であり、並べ立てられる賛辞と鳴り止まない通知で承認欲求を満たしていた。でもそれが何だというのだろう? それまでにも誰かが指摘した問題をまとめて、わかりやすく風刺をアクセントに加えました、というよくばりセットを提供しただけである。現実の問題は何も解決していない。私にとってもいっときの気晴らしに過ぎないし、肯定的に見た受け手にとってもおそらくそうだった。「うんうん、これは問題だよね、なんとかしてほしいよね」と相互に承認して気持ち良くなっているだけである。

結局、お上に対する不信感を露わにしているにもかかわらず、「みんなが問題だと思っているぞと示したら、お上がなんとかしてくれるだろう」という甘えた考えを持っていた。実際、そういう運びになることはあるだろうが、でもそれはインターネットの一部で話題になるなんて示し方ではできない。現実の問題に対しては、現実の行動しか意味がない。インターネットは、あくまで現実に行動していくための足掛かりとして使うべきもので、それ以上の役割はない。

私が五輪のボランティアについて取り上げたのは、学生の夏休みの時期をずらして五輪の期間と重ならないように文科省が求めたというニュースを耳にして、成り行き次第では五輪に関心のない私のような学生にまでも影響する問題になるのかもしれない、と思ったというのがひとつ、そしてもうひとつはボランティアだけでなく、五輪に伴って噴出したさまざまな問題が、日頃私が漠然と感じている日本の社会のよくなさの象徴のように思えたからだった。

前者は結局ボランティアが十分に集まったので私には影響がなさそうだが、後者は依然変わりがない。五輪に関する問題、一例として暑熱への対処を考えると、マラソンと競歩を札幌に移すという凄まじい案が実行されるに至った以外は、特に解決したという話は聞かないし、そもそもの間違いは、暑熱への対処が必要になることくらい最初からわかっていたはずなのに、見て見ぬふりをしてここまで来てしまったことで、だから抜本的な解決を時間をかけて考えたり、あるいはそもそも問題を避けたりするのではなく、応急処置に終始している。そういった性質は全然変わっていないように思われる。負けると(少なくとも一部の人間には)わかっていた戦争に挑んでしまったのと何が違うのか。

今示したような、「日本の社会のよくなさ」と私が感じているような性質が一瞬にしてなくなるはずはない。欠点は実際には長所の裏返しであることも多いし、一概にすべての悪い部分をなくした方が良いとも言わない。

ただ、少しずつ良くないと思われることを減らしていくことはできて、仮にそれが表面的な対処に留まり、その原因自体は変わらなかったとしても、誰かがそれで助かるのは事実だ。それを繰り返していくうちにやがては原因となる性質も変わるかもしれない。戦争を経てすら先ほど挙げたような性質は変わらなかったのだから変わらないかもしれない。それでも何も現実に影響できないよりはマシだろうと思う。

そのためにはあんな風にインターネットに文章を書いているだけではダメなのだ。皮肉や風刺は、特にダメだ。娯楽としては楽しめるし、私も好きだが、それでちょっとスカッとして忘れてしまう。本当に問題と思っていることに関しては、140文字で冷笑的な態度をとってニヤニヤしていてはいけない。正確には、やってもいいが、というか自分はそれをしてしまうだろうが、それだけで満足していてはいけない。

話がいささか長くなったが、簡潔に言えば、私の反省はインターネットで皮肉や風刺を書いてそれが話題になっても何も変えられなかったということで、私の自戒は、本当にまずいと思っている現実の問題は、インターネットをうまく利用したとしても、最終的には現実に行動しなければならない、ということである。結論だけ言えば当たり前に聞こえるし、当たり前のことは耳に残らないので、冗長なくらいその結論に至るまでの考えを書いておいた。

文章を書くのは、自分の考えを整理して、自分にも他者にも理解しやすい形にするという点では意義があると思う。最初の方に、1年と少し前にはそれなりに面白いと思いながら書いたはずの風刺が、今では面白くないと感じていると述べたように、後々の自分なんて、ほとんど他者である。他者にわかるように書いておかないと、理解できない。今私がこれを書いているのもその理由による。これは私の反省と自戒であって、別に共感を生む必要はないし、現実の他者に影響する必要もない。他人の意見が聞けたら、それはそれで嬉しいので、これをわざわざインターネットに上げている訳だけれど。