The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

回顧の夏

以下の記事はnoteから移行したものです。

 

私は3年生、つまり受験生の夏休みを演劇の稽古やら準備やらにすべて費やして、各クラスごと夏休み明けに文化祭で芝居をやるという酔狂な高校の出である。

昨日は、現役の3年生たちが、鋭意制作している演劇を夏休み中に一旦上演して卒業生からアドバイス(という名の薄っぺらなコメント)をもらう、通称「OBOG見せ」があったので2クラスほど芝居を観た後、かつての級友(母校はクラス替えがないのでもうかれこれ5年近い付き合いである)たちと酒を酌み交わし、思い出話に花を咲かせた。

この投稿はそれら演劇自体の感想について述べるものではない。卒業から1年半が経たんとしている今、改めて母校を訪ね、旧友と交歓し、やはりあの高校は素晴らしかったとの想いを深めたので、いくらか回顧したい気分になったので、それについて書く。

少し自慢めいて聞こえることを懼れずに言えば、母校は地域では名門校として知られており、基本的に、地元の公立中学では優秀な成績を収めた、比較的真面目な生徒が進学する学校である。御多分に洩れず、私も中学時代は生徒会長という立場で権力におもねり、「靴下は白色で、ワンポイントまで」などといった意味不明の校則を他の生徒に強いる側であった。

それが、今のように捻くれた、やや反骨的な、そして怠惰な人間になってしまったのは、私はもともと本質的には真面目一辺倒な人間ではなかったので私自身の素質によるのは間違いないのだが、その素質を開花させ、成長させてしまったのは間違いなく母校であった。

中学が生徒に規則を押し付けることによって秩序を担保しようとしていたのに対して、母校は「校則はただ1つ、『上履きを履く』だけだ」などと半ば本気で言われていたような学校であり、制服もなく、体操着すら指定がなく、休み時間の外出は制限されず、通信機器の持ち込みも自由であった。それは、もともとが真面目な生徒が多くやって来るのだから多少放任しても問題がないという側面が大いに影響しているのはそうだが、何よりも教員が生徒を信用していたということの顕れではないかと今になって思う。

母校は何事によらず「おおらかな」学校であった。これは担任に恵まれたためでもあるが、私が授業に行く気がしなくて高校近くの公園のベンチでだらだらとサボっていてそのまま学校を無断で休んでも家庭に連絡が行くことはなかった。学校行事で教員にコスプレをしてもらったり、文化祭の宣伝を行う映像のために小芝居を打ってもらったりするなんてことは頻繁にあった。私は1つの高校しか通っていないので他と比較することはできないが、一般的な高校ではあまり考えられないことなのではないかと思う。

ここでちょっとしたエピソードを挟むと、私は高校3年次の進路選択で、たまたま建築に興味が少しあったこともあり、そして苦手としていた理科系科目を克服するために、あえて理系を選択した。今考えれば、「お前はそんなにストイックな人間ではないだろう」となるのだが、大学生が科目登録の時期に少し背伸びして午前中の授業を多めに取ってしまったり、課題の多い授業を「これはやりがいがありそうだ」などと感じて取ってしまうのと、同じような現象である。

さて、私は努力とか克服といった言葉とは縁遠い人生を歩んできているので、理系を選択したところで数学や物理や化学を必死に勉強するわけでもなく、それらの科目の授業中など仮に出席していても、文化祭のことなど空想していて「ただ着席している」というのがふさわしい状態だったし、そもそも出席していないことも多かった。この辺りは、私の同期であればよくご存知の方もいるだろう。

物理や化学は、中学時代はむしろ比較的得意としていたのでまだしも、数学は人生の最初期から不得手で、山田風太郎の言葉を借りれば「数学的白痴」を自認する人間であり、数学IIIなど当然ちんぷんかんぷんで「惨憺たる」などという陳腐な形容では追いつかないほど酷い成績だった。大学では単位を落とすと成績表に「F」がつくが、もし高校で同じシステムが採用されていたら、私の成績表の数学IIIの項目には「F」と記されていたことだろう。failedというよりもfatalである。

その後、私は3年の秋口にいよいよ退っ引きならぬ状況になり(以前から心中では逃げ道として検討していた)文転を決意して、最終的に私大の文系学部に進むことになったのだが、数学IIIの担当であった先生、つまり私の破滅的な成績に対して数学IIIの単位を与えた先生にそのことを報告したところ、先生は「松本君は教養として数IIIをやったんだもんな」と言ってのけた。
私は苦笑を以ってそれに答えたが、いまでもその会話を思い出せば思わず苦笑してしまいそうになる。このエピソードを私は母校に感じる「おおらかさ」の1つの象徴として捉えている。

私は多感な時期をあのおおらかさのもとで過ごせたことで、高校生活において特段深い悩みを抱えることもなく、まるでぬるま湯のような居心地の良さを味わえた。私が母校以外の高校に進学していたら、比較すれば居心地の悪い高校生活を送ることになっただろうし、より生きづらさを抱えて日々過ごしていたことだろうと思う。もちろん、これは私個人の印象であって、母校において息が詰まるような思いをしていた方も少なからずいたのだろうと思っていることは言及しておく。
それはともかく、高校時代だけでなく、現在に至ってなお、私は母校の人間関係に大いに救われているのであり、時々そのぬるま湯に浸かりに行ってしまうのだった。

話は打って変わるが、私は日本国憲法の第12条が好きである。その条文を一部抜粋すると、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とある。

母校は公立高校であり、生徒だけでなく教員も時間が経てば入れ替わってしまう。先ほどの数学IIIの先生も私の卒業と同時に母校を去ってしまったし、担任も別の高校に異動してしまった。そして、その後釜にどのような人格を持った教員が赴任してくるかはわからない。教員と生徒の信頼関係を永続的なものにするのは、おそらく私立高校と比べて遥かに困難だろう。
私はもう母校の生徒ではないし、とやかく言うことでも無いのだが、現役の在校生には先に引用した条文の精神のもと、私が愛して止まない母校の「おおらかさ」をどうにか保持してもらえたらいいな、くらいに感じている。そして、母校が受験生の夏を勉強以外に費やすような、酔狂で、おおらかで、自由な学校のままであればいい。