The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

人生の予測不可能性について

未来のことは、誰にもわからない、ということはみんな知っている。

でも、人は本当にそう思っているのだろうか。

僕は「人生は何があるかはわからない」という考えが、もしかしたら人並みよりは強いのではないか、ということをたまに感じさせられる。


具体的な話をしよう。

僕には良い大学を出て、良い会社に入って、それで人生が「あがり」だとはまったく思えない。上司がクソ野郎で鬱になるかもしれない。結婚した相手の両親が重い病気になって苦労するかもしれない。子供が非行に走って人を殺めるかもしれない。会社で何らかの悪事に荷担させられるかもしれない。せっかくのマイホームが地震で跡形もなく崩れ去るかもしれない。

みんなそういうことを意識しながら生きているのだろうか。あまりそうは思われない。

別に悪いことだけが起こる、と思っているわけじゃない。良い大学を出て、良い会社に入ってみたら、人間関係は最高だし任されたプロジェクトで莫大な成果を挙げてトントン拍子に出世。結婚相手とは本当に仲が良く子供もすくすくと成長し国立の医学部へ。マイホームを購入したらその周辺の地価が上がりに上がり、55で家を売ってローンを早めに完済、余ったお金で郊外に別荘を……、というようなことだって起こるかもしれない。

純粋に、何があるかは、わからない、と思っているということだ。

そして悪いとそのとき思われることが悪いだけのことかも、わからない。義両親が重い病気になって苦労した経験をもとに脱サラして始めたビジネスで財をなすかもしれない。せっかくのマイホームが崩れ去って泣く泣く別の場所に引っ越すと隣人の家族もジャズが好きだと判明して、その後生涯一緒に演奏を楽しめるようになるかもしれない。

良いとそのとき思われることも同じだ。良かれと思ってした選択が最終的にはあだとなる経験など、誰もがしたことがあるのではないだろうか。本当に、何があるかなんて、誰にもわからない。


確率という面では、世間の集合知が導き出した「よいだろうと思われる人生のキャリアパス」を選択した方が、おそらく幸福な人生を歩む人は多いだろう。でも、それを心から選べる人ならともかく、本心ではそれをしたいとは思っていないのに、「合理的な」選択をするのはどうなのだろうか。それで考えたようにことが運ばなかったら救いがないのではないか(もちろん、そうなってすらも後にはあれで良かったと思うのかもしれない)。

人生に何があるかは、本当に、ただただわからないのだから、どうせなら自分のしたいことを選んだ方が後悔がないのではないだろうか。まあ、若いころの判断力は未熟なので、たとえば世間の集合知に乗っかっておけば良かった、とか途中で思わされることもあるかもしれないが、それでもやはり、最終的にはそれが功を奏すかもしれないのだから。功を奏さないかもしれないが、結局それは、その時点では判断ができない。したいようにした結果ならば、それをまだ引き受けやすいのではないだろうか。

いずれにせよ、最終的には自分が死ぬときに初めて、選択の答えが決まるのだろうと考えている。