The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

4月19日(日) 晴のち曇

今日はすごくよく晴れていた。

昨日日記を書いた後、Discordで友人らと話し、そのあといま考えているWebサービスのメモをKibelaに書いていたら間違えてリロードしてしまい、すべて書き直すはめになって困惑するなどしていた。

中野にあるBRICKというすごく良いバーがどうやら最近の風潮のせいで閉まるらしい。たくさんの店が閉まっているということをTwitterで目にするが、行ったことのある店がこの騒ぎの影響で閉まるのは初めてである。60年近い歴史のある店である。とてもじゃないがこんなことでなくなって良い店ではない。
オンラインの場所には、どうも個別性が薄い。我々は、例えばよしじゃあ今日は飲み明かそうというとき、大抵途中で河岸を変える。その店に(朝までやっているなら)居座ることもできるのに。それは単にずっと同じところにいると飽きるからだろうが、ではなぜ河岸を変えると良いかといえば、きっと店(場合によってはカラオケやダーツや公園かもしれないが)という場所がもたらす何かが、そこにいる集団としての我々という場の性質にも影響を与えうるからだろう。
オンラインではそういうことができない、とは言わないが、しづらい。やっぱりSkypeよりZoomの方が話が盛り上がるね、とは(現実に異なる場所にいることに比べて)あまりなりそうにない。VRなら変わってくるのかもしれないが、VRで人と話すのを試したことがないのでわからない。
いささか話が脱線したが、BRICKはとてもいい場所だったのだ。あいにく数回しか行ったことがなく、決して常連などでもないが、ああ、失われるべきではなかったのに、と思う。もっとこれからもずっと行きたかった。

さて、4時手前くらいに寝て、なぜか9時ごろに目覚めた。いつもより早い。せっかく目覚めたのでそのまま起き続けることにした。とは言っても、布団に入ったままだらだらとTwitterなんかを見ていただけである。昼頃になってやっと体を起こして、いくらか作業をした。

作業と並行して、ドミニク・チェンの『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』を読み始めた。どうも今している作業と関わりがありそうだなと思い、1週間ほど前に誕生日プレゼントで友人からもらって積読していたのを紐解いたのである。作業が一段落してから本腰を入れて読み、さっき読み終わった。
ドミニク・チェンなどと呼び捨てにしているが、僕はドミニクゼミの人と多少関わりを持っており、先生にもお会いしたことがあり、そのために尚更興味深く、すんなりと読めた。そもそも、決して難しい本ではない。文章は平明で、簡潔である。これは筆者がフランス語の文化に属していることと関係があるのかもしれないな、と思った。
僕は、日本人の両親のもとに、日本で生まれ育ち、日本語を母語とし、日本国籍を持っている。そういうすごく単純な(日本においてはマジョリティであろう)アイデンティティを持っているが、筆者の民族的なルーツ、国籍、そして言語的な生育環境はとても入り組んでいる。その人生を自伝的に辿りつつ、並行してその時々で触れた、のちの筆者の現在の研究に影響する他者の思想・研究を紹介するというスタイルをとり、自然、テクノロジー、人間、社会などをテーマに、様々な話題を扱っている。
などと書くと、一本筋が通っていないように感じられるかもしれないが、実際には一貫した土台があり、タイトルにもなっているが、言葉である。これは筆者が複数の言語を操ることと関係しているだろう。第7章は人間以外の生命の話が中心となっており、やや「言葉」から外れるようにも思われるが、それにしても最終的にはぬか床をしゃべらせる(言葉を持つ)ようにするという研究に至る。
第3章のロサンゼルスの高校でのエピソード、第9章のモンゴルの遊牧民とのエピソードは、とても興味深い。また第8章のフランス語を幼い娘に話してもらおうとするエピソードは興味深い上に可笑しい。
読み物として純粋に面白いし、この本を経由して過去の研究を知り、学びを深めるためにもおすすめできる。

明日は天気が悪く寒いらしい。今日のうちに煙草を買い足しておいてよかった。