The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

文章にしがみついて生きる

どうにもならなくなると文章を書く。

気持ちが昂ぶって眠れない夜は文章を書く。

文章を書くことは、自分が何を考え、何を感じているのか自分で理解するための作業だ。マイナスの感情は特に、容易に処理できる形では現れない。ただただ発散していきそうになる気持ちを、悲しいとかつらいとか恥ずかしいとか悔しいとか情けないとか、できるだけ理解しやすい言葉に無理矢理落とし込む。後付けでもいいから理由も文章にする。そうすると、例えば「ああ、俺、周りと比べてうまく仕事をこなせないからつらいんだな」というように、処理しやすい形で認識できて、少し楽になる。その過程で捨象されてしまうものもたくさんあるけれど、仕方ない。感情を言葉に還元せずにそのものとして受け入れて処理できるほど、頭が良くない。

そのときの感情とはあまり関係ないことを必死に書く場合もある。いま書いている文章はわりとそれに近い。感情をそのまま書き留めておくのではなく、感情が手に負えないときに文章を書くということ自体を書いている。

気持ちをとてもじゃないけどうまく言葉にできそうにないとき、よくこの手法を取る。
どんな事柄であっても、文章を書くのはそれなりに頭を使う。暴れる馬に鞭を振るうとか、氾濫しそうな川に土嚢を積むとか、そういう行為に近いかもしれない。とにかく感情や思考が言葉として出てくるので、バックスペースキーを何度も押しては、より正確に言い表すことを目指して書き直し、なんとか納得できる程度に着地させられたら句点を打つ。その繰り返し。しばらく書いていくと、その前に書いた段落との整合性が気になってくるから、遡って直す。そんなことを続けていると、次第に心が安らいでくる。結構うまく言い表せたな、という心地よさと、考えや気持ちを自分で文章として理解できることによる落ち着きがやってくる。

だから文章を書くのは本当に、まず何よりも自分のためだ。
文章をブログに載せて他人の目に触れさせるのは、のちのち自分で読み返したときにわかるくらい、丁寧に言葉を連ねたいからだ。人に読ませるつもりで書いて、結局載せない文章も結構ある。自分がいまわかれば良いという感覚だと、その場しのぎの表現になってしまう。他人は、前提となる知識や考えや経験を共有していないので、もう少し丁寧に言い表そうと思える。将来の自分も実は、多くの場合それらを今の自分と共有していない。でも、他人が文章を読んで理解できるように書いても、誰かがそれを読むとしても、場合によってそれを面白いと思うとしてもやっぱり、他人のために書いているわけじゃない。結果としてそうなるなら嬉しいことだけど。

ときどき、文章に生かされているなあ、と思う。大した名文家ではないし、文章で食べているわけでもないけど、それでも(だからこそ)文章に生かされている。文章にしがみつくようにして生きている。だから文章もまともに書けないくらい憔悴してしまったら生きていかれないかもしれないけど、そのときのことはそのとき考えたいと思う。そうなったら踊ればいいんじゃないかなという予感もする。