The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

新大久保のコメダ、三軒茶屋のデニーズ

大学での生活はいつも虚しさのようなものが付きまとう。
よく知りもしないのにさも一生の友人かのように振る舞わなければいけないサークルの飲み会とか、学ぶこととは程遠い気怠さが充満している大教室の講義とか。

そういう虚しさに苛まれ、いつも夜更けの街を散歩していた。夜の街を歩くことは、自分がカメラであるような気分にさせられてとても好きだった。光と闇が網膜に写るのをただ認識しているだけだ。そこに自分はいない。

とはいえ、無機物ではない私は、ずっと歩いていたら疲れる。そんなとき深夜に開いているチェーン店というのはとても良かった。そこでは誰とも必要以上のことを喋らなくていいことが保証されている。店員も客も、置き換え可能な機械である。

特に好きだったのが、タイトルにある新大久保のコメダと三軒茶屋のデニーズだった。深夜に行くと、どちらも社会から外れたような人間しかいない。でも、本当に貧しいわけではなく、むしろそれなりにお金はあり、稼ぐ手段を持っているにもかかわらず社会から疎外されているような人間ばかりなのだ。それが私立大学に通い親の脛をかじっている自分には居心地が良かった。結局贅沢な身分で贅沢な悩みを持っているだけのどうしようもない人間なので、真にシビアな場所にはいられない。

どちらもかつては煙草が吸えた。新大久保のコメダは、ドン・キホーテの一部という文化的なものとはかけ離れた最悪の立地であり、夜の仕事をしていると思しき女性ばかりだった。独りのお客さんは少なく、仕事仲間を連れて話し込んでいる人が多かった。そして大体、話の内容が興味深い。それを盗み聞きしながら、クリームソーダか「たっぷりアイスミルクコーヒー」でも飲んで過ごしたものだった。どちらも文化の薫りがしない下品な飲み物で好きだった。

三軒茶屋のデニーズは、対照的に独りのお客さんが多かったように思う。男も女も何をして食べているのか想像がつかない人が多かった。よくわからない人が独りでふらっとやってきてパフェでも食べている。連れ立ってきている人たちも、話はあまりしない。たまにぽつぽつと声が聞こえる。あの訳のわからなさがとても好きだった。

深夜のチェーン店は、資本主義の栄華を極めた末期的な日本の名残という感じだ。あれこそが社会の余裕だ、といつも思う。もう日本には眠らない街を維持していく余裕はないらしい。本当に困ってしまう。都会の真ん中で深夜にひっそりと安らぎを得ていた人たちは、どこへ行ったのだろう。