The Focal Distance

概ね眠い20歳の日記

偏狭な人間たちによる偏狭な正義

この数千年で、人間の倫理観はそれなりに進歩をしてきたと思う。

しかし、最近では倫理的であること、正しくあることを追求するあまりに逆に正しくなくなっていることがあるのではないだろうか。

セクシュアル・ハラスメントの被害を受けたことを表明するMeToo運動を受けて、マンチェスター市立美術館の「ヒュラスとニンフたち」という絵画が撤去された。

学芸員の言によれば、いくつかの所蔵品は「女性を受け身の美しい対象物とか、妖艶な存在としてしか描写しておらず、とても時代遅れ」とのこと。

セクシュアル・ハラスメントは正しくない。これは、根本的には「その人が嫌がることをしてはいけない」という問題であって、このルールは人間社会の基本的なルールと言ってもいいと思う。例えば、私に髪を触られるのを嫌がる女性も、福山雅治にだったら喜んで、という方もいるのではないだろうか? セクハラの基準は、それぞれの関係性や性格によって異なる。「男性が女性に対してこれこれをしたらセクハラ」、逆に「女性が男性に対してこれこれをしたらセクハラ」というような明瞭な基準は存在しない。だからこそ、「こういう行為は嫌だ」と言える自由は尊重されるべきである。

そして、「女性の受け身の美しさ」や「妖艶な存在としての女性」を描いた美術作品を当の美術館が撤去する行為も、全く正しくないと感じる。私たちは美術品を楽しむ自由を持っていると同時に、楽しまない自由も持っている。私は女性の美しさというのは重要な価値であると認識しており、それを描こうとした人間の挑戦とその結果を見たいと思っているが、そうでない人(例えば先の学芸員など)もいるだろう。

だからと言って、美術品を楽しむ自由を、その美術品を楽しめない人間が奪うのは正しくないと思う。私は「これは正しくない美術品ですので、撤去します」などという他人の価値判断を受け入れるつもりはない。なぜあなたがこれを正しくないと決めることができるのか? 正しくないと感じるのであれば、その旨を言葉で主張するか、何らかの手段で表現すべきであり、「正しくないから作品そのものを展示しない」というのはおかしな態度である。

また、セクハラへの抗議の表明として「ブラック・ドレス」を着用するのが流行した今年のゴールデングローブ賞授賞式だが、バーバラ・メイヤー氏は黒いドレスを着用せず、自分の好きな服を着る自由を擁護する表明としてあえてカラフルなドレスを着用したという。全く立派な行為である。これで彼女を非難する人は本質的にセクハラを行う人と同様、他人の自由や意志を尊重せず、侵害することに喜びを覚える人である。

話は変わるが、最近自由が特に侵害されているなと思うのは喫煙である。喫煙による健康への被害については、「喫煙者が多かった世代は十分な寿命を獲得しているのではないか?」などと思うこともあるが、そのほかにも煙草の匂いや煙を不快に思う人もいるだろうし、嫌煙権は保障されるべき権利のひとつであると信ずる。ただそれと同様に、喫煙をする権利も保障されるべきではないだろうか? と認識している。例えば飲食店において、「完全な分煙」が実現し得ないと言うのなら、むしろ「完全禁煙」の店舗と「全面喫煙可」の店舗を喫煙者の割合に応じて設けて良いのではないだろうか?

また、東京都では「家庭で子供の前で煙草を吸うことを規制する条例」が4月に成立する。もちろん子供の前で煙草を吸うことは良くないであろう。だからと言って、家庭内の権利や自由を公が制限して良いのか? と疑問に思う。同条例には罰則はないものの、そういった条例が成立してしまうことに危うさを感じるのは、話が喫煙では止まらないと思っているからである。

喫煙が概ね制限された後は、飲酒や砂糖や脂肪や塩や肉食やコーヒーがターゲットになるのではないだろうか?

飲酒は健康に良くない。砂糖は健康に良くない。脂肪は健康に良くない。塩は取りすぎてはいけない。肉食は脂肪を多く含む上に動物の権利を侵害している。コーヒーは匂いが不快だし発展途上国に住む人間の人権を侵害しかねない、等々。

「喫煙は他者にまで不利益を及ぼすから」という意見もあるかもしれないが、飲酒によって迷惑を被った人はいないだろうか? 私の父親は酒癖が悪いので私は彼に酒を飲まないでほしいと思っているし、飲酒運転は他人に不利益を生じうる。あるいは、他人のニンニクの匂いは不快だし、ニンニクは他者に不利益を及ぼすのでニンニクも禁止すべきだろうか?

上の東京都の条例の論理では、「子供に炭酸飲料や糖分を多く含む菓子・塩分を多く含む菓子を買い与えることを規制する条例」や、「子供の前で飲酒をすることは将来子供の飲酒を促進する恐れがあるので規制する条例」なども成立し得るのではないだろうか? 経済力のない子供は親が買い与えたお菓子を食べる外選択肢を持っていないし、飲酒をしない親を選んで生まれることもできないのだから。

そうやって全ての嗜好品を規制した後に、何が残るだろう。嗜好品だけでなく、例えば「ドライブ」と言う趣味も、自動運転が普及した暁には「危険」と言う理由で規制されるかもしれない。そのとき人間は何を楽しみに生きていくのだろう。

私は、何らかの正義のために他者の楽しみを奪う行為は、できるだけ避けるべきであると考えている。それは偏狭な正義である。芸術を楽しむ自由。好きな服を楽しむ自由。喫煙を楽しむ自由。飲酒を楽しむ自由。焼肉やポテトチップスやコカコーラを楽しむ自由。ドライブを楽しむ自由。これらの自由ができる限り保障されるべきであると同時に、「それを楽しめない人」の自由もできるだけ保障されることが、本当に「正しい」と言うことではないだろうか?

それは例えば「裸婦画はゾーン分けして展示する」と言うことであったり、「ベジタリアンメニューを用意する」と言うことであったりする。

他者の自由を侵害して何かの自由を得るのではなく、できるだけ多くの自由を尊重できる世の中を、何とか実現したい。