The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

形あるものをつくるということ

先日、知人が通う武蔵野美術大学にお邪魔した。

ムサビ自体もキャンパスの雰囲気が素敵な大学だなと思ったのだが、何よりも良いなと思ったのは形のあるものをつくっていることだった。

その知人は建築学科なので、製図をしたり模型をつくったりしていたのだが、それが私には新鮮に感じられた。

私はものをつくるということをしない人間ではない(広義には、ものをつくらない人間などいないだろうが、より狭義でものをつくる人間である)。しかし、つくるものは、プログラムや映像や画像やウェブサイトといった、コンピュータを用いるデジタルな領域に限られている。

それらは、触れることができるものとしては存在しない。印刷したり、フィルムにしたりすれば触れられるだろうが、それらはデータを物理的なメディアに記録した形に過ぎず、それを言うのであればすでにSSDやHDDに記録されている。誰もソースコードそのものには触れることができない。

その点、建築は触れることができるものとして存在している。
森博嗣は(彼自身も建築学科の教員であったが)、小説『すべてがFになる』の中で20年以上前の作品にもかかわらず今で言うところのVRを登場させ、将来にはエネルギー節減の観点からVRの中で人は暮らすことになるだろうと予言した。触れることの重要性を別の登場人物が指摘すると、触覚などのフィードバックも機械によって実現できるだろうとした。

ここから私が主張したいのは、何れにせよ「触れられる」のは重要である、ということだ。触覚のフィードバックはスマートフォンでも行われるようになった。そのコストをかけてまで、人間には触れられることが必要なのだと思う。

しかし私は、形あるものをつくることができない。そして、私が大学で専攻する(ことになっている)政治も、触れられるものではない。そういう点で、形あるものをつくることができ、形あるものを生み出すことを専攻できることを、羨ましく思ったのだった。