The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

村上春樹が進研ゼミ高校講座のDM担当者だったら

「完璧な解答などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 僕が高校に入って最初のテストを受けたあと、担任が答案を返却しながら僕にそう言った。その解答用紙には六月の空のような空虚な数式が並んでいた。僕はそのテストで、自分が人よりも数学の才能がないことを思い知ることになった。今となってはそれはとても些細な――マヨネーズやアボカドやデヴィッド・ボウイに比べてということだが――事柄だったとわかるけれど、当時の僕はずいぶんと思い悩んだ。

 その頃、ホーム・ルームで僕の隣の席に座っていた女の子はとても数学がよくできた。僕は彼女に相談してみようと思って、ある日の昼休みに話しかけた。
「ねえ、君は数学がどうしてそんなに得意なの?」
「それは、一つには生まれつきのものなのよ。才能、と言うと少し大げさだけれど、足の速い人や絵が上手な人がいるように、数学ができる人もいる」
「じゃあ、僕は数学ができるようになることはないのかな」
「あるいは。でも、方法がないわけじゃないわ」
「その方法というものを教えてくれないかな。もし、君がよければ、の話だけど」
「ええ、じゃあもうすぐ授業だから、放課後にまた話しましょう。六時に駅前のカフェでいいかしら」
「わかった。ありがとう」
 彼女はうなずくと、机の上にあったオックスフォードの英英辞典とペン・ケースを持って、教室を立ち去った。僕は予鈴のチャイムが鳴るのを聞きながら、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

  

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 僕は約束の五分前にカフェに着き、彼女の姿を探したが、見つからなかったので先に席に着き、アイス・コーヒーを頼んだ。
 約束の時間を過ぎても、彼女はやってこなかった。僕はやけに酸味の強いコーヒーを飲みながら、フィッツジェラルドのペーパーバックを開いた。彼女はほどなくしてやってきた。彼女は制服ではなく、モスグリーンのポロシャツにコットンの白いパンツを履いていた。
「ごめんなさい、クラブで汗をかいてしまったから着替えてきたの」
「なるほど。とても似合っている」と僕は言った。事実、それらはとてもよく彼女にフィットしていた。彼女の理知的な態度を現しているかのように見えた。彼女の私服を見たのはこのときが初めてだった。
「ありがとう」
 彼女は席について、店員を呼んでジンジャーエールを頼んだ。
 
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「それで、方法というのを教えてくれる?」
「進研ゼミ、って知ってるかしら」
「進研ゼミ?」と言いながら、僕は首をひねった。耳慣れない言葉だった。
「ええ、ある会社がやっている、通信教育なの。毎月、教材が送られてきて、あなたはそれを参考に問題を解いてまた送り返す」
「それから?」
「それから、会社に雇われた赤ペン先生という人が、あなたの答案を添削して、あなたの元に送る。あなたは、真っ赤になった答案を読んで、どこが間違っていて、どこが正しかったのかを確認する」
「もし、わからないところがあったらどうする?」
「教材自体が、あなたの進度に合わせて構成されているから、わからないことは少ないはずだけれど、もしあったらスマート・フォンやコンピュータで、二十四時間教科アドバイザーに質問できるわ」
「なるほど」と僕は感心して言った。よくできた仕組みだ。
「私が数学ができるのも、半分は進研ゼミのおかげでもあるの」と彼女は満足げにほほえみながら言った。僕はその場で進研ゼミを申し込んだ。

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 進研ゼミは彼女が言ったとおり、たしかにわかりやすかった。僕は通学の電車で定期テスト必勝暗記ブックを読み、家に帰ってからはこつこつと教材に取り組んだ。教材は一回十五分程度で終わるようにできていたし、もともと、日々のこまごまとした作業を真面目にこなすのは嫌いではなかった。間延びした積乱雲が空に大きくかかる頃、二回目の定期テストがあった。
 僕は数学の問題を一瞥して、強い既視感に襲われた。前にも似たような問題を見たことがある、と感じた。どこかで。僕は記憶を巡らせて、それが進研ゼミ七月号に載っていた問題と同じ種類のものであることに気付いた。ご丁寧に「よく出る」というマークつきで。「なるほど」と僕は思った。なるほど。本当によく出るのだ、と。
 後日、テストを返却するとき、先生は僕に向かって言った。「完璧な答案などといったものは存在しないが、君の答案は完璧に近かった。」

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 テストが返された後、僕は彼女に話しかけた。
「おかげさまで、良い点が取れたよ。ありがとう」
「私のおかげじゃないわ。進研ゼミのおかげよ」
「いや、君が教えてくれたから、進研ゼミと出会うことができた」
 彼女はしばらく黙って僕のことを見つめてから、口を開いた。
「ねえ、今度一緒に進研ゼミを解かない? もし、サワダ君が気にならなければ」
 僕は他人と勉強をするのは得意ではなかったが、この頃には僕は彼女に好意を抱いていた。
「全然かまわないよ」
 彼女は都合の良い日程を言って、僕らはその次の日曜日に彼女の家で進研ゼミを解くことになった。
 
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 彼女の家は、こぢんまりとしてはいたが、設計者の誠実さが伝わってくるような洋風の建物だった。小さな美しい庭に向日葵が咲いていた。彼女の両親は家におらず、弟はクラブの合宿に行っていた。僕らはゆっくりと進研ゼミを解き、それが終わってからはテレビを見ながらいろいろな話をした。近所に住む偏屈な老人が市役所の前で座り込みをした話、ある先生の息子が万引きをして捕まった話、クラスメートがコンビニエンスストアでアルバイトをしていて大量にレモンを注文してしまった話。どれもこれもくだらない話だったが、彼女は適切な相槌を打ち、ときどき鋭い感想を述べて僕を驚かせた。そして僕はこの日彼女と寝た。
 
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 それから、僕は彼女と交際を続けながら、世間では一流とされている大学に入学した。彼女もまた同じ大学に入学した。大学に入ってしばらくしたある日、僕は彼女にこんなことを尋ねたことがある。
「ねえ、もし進研ゼミをやっていなかったら、どうなっていたと思う?」
「あなたは私に感謝するようなことはなかったでしょうし、私たちが一緒に進研ゼミをやることも、こうして今同じ大学で学んでいることもなかったでしょうね」
「君と付き合ってすらいないだろうね」
「もちろん」と言って彼女は僕の首筋にキスをした。
 進研ゼミを始めたことで、僕の人生が良い方向に――主観的に見て――進み始めたのは間違いない。進研ゼミをやっていない人生というものを、僕は想像することしかできないが、おそらく今よりは悲劇的なものになっていただろうと思う。僕はきっと、進研ゼミに感謝する必要があるのだろう、と思いながら、キスしている彼女の髪に指をさし入れた。