The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

国立の話

久しぶりにロージナ茶房に行き、国立を散歩したので色々と思うことがあった。

国立は僕が幼稚園から小学校にかけて住んでいた場所の最寄駅であり、中学の時通っていた塾がある場所であり、高校生活を送った場所である。

という訳で、大学に進学して実に久しぶりに国立という街から離れた生活を送っているのだが、だからこそ今国立を訪れると様々なことを思い出す。

僕の今までのロマンス(死語)も悪友(死語)とのひとときも受験勉強もほとんどすべて国立を舞台にして行われた。phaさんが「鴨川の河川敷を歩くと数メートルおきに思い出が浮かんできて危険だ」みたいなことを書いていた記憶があるが、僕にとっての鴨川の河川敷は大学通りであり、一橋大学であり、谷保第一公園だった。

駅前のマクドナルドでどれだけ無益なおしゃべりに興じただろう。なっくるでどれだけのラーメンを食べただろう。谷保第一公園でどれだけ授業をサボっただろう。深夜の一橋大学でどれだけ悩みを相談しただろう。サイゼリヤでどれだけ文化祭の話し合いをしただろう。隙があればバンバンで歌い、たまの背伸びでシュベールに行き、大学通りや富士見通りを練り歩いた。

国立は小さな街だが、確かな雰囲気のある街だった。青春時代を国立で過ごせたのは僕の人生にとって良いことだったと思う。

だからこれからも僕は国立を時々訪れるだろうし、その度に僕は色々なことを思い出してしまうのだろうし、年齢を重ねることで国立の新しい側面を発見できたら良いなと思っている。

生きていると死にやすくなる

生きていると次第に死にやすくなる、ということに気付いたのはいつだったろう。

最終的に生命がすべて死にたどり着く以上、それは当然のことなのだが、「寿命」とか「老化」といった肉体的な問題以外にも、死にやすさが増していく。

例えば、幼稚園の頃の私は、庇護を受けなければ暮らすことができないという点でもっとも脆弱かに見えるが、その実、例えば今庇護を与えてくれる者がいなくなったとしても、ほとんど自動的にまた別の者(親戚や自治体など)が庇護を与えてくれるという点で、実際には死から遠い場所にあるのだ。

また、幼い私は「大切にされる」一方であり、他者を大切にする、という感覚を持ち合わせていない。自分でない他人に何があっても、私はほとんど損なわれない。

 

それが今はどうだろう。

私は今なお親の庇護のもとで悠々と暮らしているが、それもあと数年のことだろう。他者の庇護を受けて暮らすハードルはどんどん上がって行く一方ではないか。そうしたら自分で自分の生活を維持していかなければならない。これは死に近い。

また、精神的にも脆くなる一方ではないだろうか。生きていれば、それなりにいろいろなことがあり、その中でお世話になった人、大切な人、というのも出てくる。そういった人の身に何かあったとき、私という人間までも損なわれる。大きく損なわれれば、死を選ぶこともあるだろう。

 

幼いころの、か弱い私が、実際には生物として一番強靭で、それなりに成長した今の私の方が、生物としてより脆弱だ。

「本能」でガラスを割っていた椎名林檎はどこへ行ってしまったのか

まずはじめに断っておくと、僕は椎名林檎の熱烈なファンでは全然ない。有名な曲は聞いたことがある程度だ。最近の椎名林檎の活動となると、いよいよ怪しい。そういう人間が書いていると認識していただければ良いと思う。

さて、僕は椎名林檎がデビューした1998年に生まれた。それから十数年が経った今でも、椎名林檎は僕を含めた同年代(の一部)を惹きつけている。しかし、個人的には、惹きつけられるのは、「NIPPON」や「長く短い祭」ではなく、「本能」や「正しい街」や「罪と罰」や「ここでキスして」である。
先ほど「惹きつけられる」とした曲は全て、彼女が若い頃、つまり今聞いている僕たちと同じ年頃だったときに書かれたものである。椎名林檎も来年には40歳になる。いつまでも朝の山手通りで煙草の空き箱を捨てているわけにはいかないのだろう、とも思う。
だが、サッカーで日本を応援する歌を書き下ろしたり、五輪の閉会式の演出を担当していたりする椎名林檎を見ると、「随分と上手いこと変わってしまいましたね」という思いを抱いてしまうのは避けられない。「未来等 見ないで/確信出来る 現在だけ重ねて」と歌った椎名林檎、絶対国家やオリンピックになんか興味なかっただろ、と思ってしまう。

40や50になっても、青臭いような、鮮烈な歌を歌っている椎名林檎を見たかったような気はするが、そういう歌は若い頃にしか書けなかったのだろう、と理解することもできる。また、僕たちが椎名林檎を聞くようになったときには、すでに椎名林檎は変化したあとだったから、その変化を受け入れる/受け入れないの選択をする必要もなく、「最近の曲はあんまり響かないけど昔のは好き」などと軽く言うこともできる。

しかし、椎名林檎がデビューしたときに彼女と同年代で、その音楽に惹きこまれた世代はどう感じているのだろう。誰も彼もが、椎名林檎のように上手に変化を遂げることができるわけではないだろう。穂村弘が「青春ゾンビ」という言葉で表現していたが、青臭い思いを引きずったまま椎名林檎と同じだけ歳を重ねてしまった人もいるのではないだろうか。
そういった人が、最近の椎名林檎の活躍を目にするとき、寂しさや、ともすると「裏切られた」というような感情すら浮かび上がってしまうのではないだろうか。実際にどうなのかは、彼らと同世代ではない僕にはわからないのだが。

形あるものをつくるということ

先日、知人が通う武蔵野美術大学にお邪魔した。

ムサビ自体もキャンパスの雰囲気が素敵な大学だなと思ったのだが、何よりも良いなと思ったのは形のあるものをつくっていることだった。

その知人は建築学科なので、製図をしたり模型をつくったりしていたのだが、それが私には新鮮に感じられた。

私はものをつくるということをしない人間ではない(広義には、ものをつくらない人間などいないだろうが、より狭義でものをつくる人間である)。しかし、つくるものは、プログラムや映像や画像やウェブサイトといった、コンピュータを用いるデジタルな領域に限られている。

それらは、触れることができるものとしては存在しない。印刷したり、フィルムにしたりすれば触れられるだろうが、それらはデータを物理的なメディアに記録した形に過ぎず、それを言うのであればすでにSSDやHDDに記録されている。誰もソースコードそのものには触れることができない。

その点、建築は触れることができるものとして存在している。
森博嗣は(彼自身も建築学科の教員であったが)、小説『すべてがFになる』の中で20年以上前の作品にもかかわらず今で言うところのVRを登場させ、将来にはエネルギー節減の観点からVRの中で人は暮らすことになるだろうと予言した。触れることの重要性を別の登場人物が指摘すると、触覚などのフィードバックも機械によって実現できるだろうとした。

ここから私が主張したいのは、何れにせよ「触れられる」のは重要である、ということだ。触覚のフィードバックはスマートフォンでも行われるようになった。そのコストをかけてまで、人間には触れられることが必要なのだと思う。

しかし私は、形あるものをつくることができない。そして、私が大学で専攻する(ことになっている)政治も、触れられるものではない。そういう点で、形あるものをつくることができ、形あるものを生み出すことを専攻できることを、羨ましく思ったのだった。

60年代に生まれたかった

僕は1998年の生まれだ。

2002年に幼稚園に入った。2005年に小学校に入った。小学校を出る直前に東日本大震災があった。2014年に高校に入った。2017年に大学生になった。

うまく行けば、2021年に大学を卒業する。

僕が成長して来た時代は、日本という国が着実に衰退を遂げて来た時代である。

いつの日か、「(人間は進歩しているのだから)今が、今までで一番いい時代」というような文言を見た記憶がある。なるほど、世界全体で見ればそれは正しいのかもしれない。そもそも人間が「進歩」しているか、疑問は残るが。

しかし日本の一番「いい時代」は、今ではないと思われる。

やり場のない閉塞感、余裕のない社会、目的を見失った政治、複雑化する世界、そのような世の中で僕らは育ってきた。そして、先行きに希望を持つことは、非常に難しい。同世代の人間がどう思っているか知らないが、「日本という国はすぐに滅びるかもしれない」という思いを持ちながら僕は生きている。僕はこの国が、特にこの国の都市や自然や文学が好きなのに。

60年代に生まれて、80年代に大学生活を送りたかったなとたまに思う。

80年代と現代の日本人では、物質的な豊かさはほとんど変わらないのではないだろうか(あるいは、大学生に限っては、行く人が限られていた分前者の方が豊かだった可能性も大いにある)。

穂村弘鷺沢萠のエッセイには、80年代の大学生活(二人とも、奇しくも上智大学を出ている)についての描写がある。そこに描かれているのは、きらびやかで、自由で、文化的にも豊かな大学生活である。それは、高度経済成長を遂げ、世界屈指の経済大国となり、物質的な豊かさを享受し、精神的な豊かさを志向するようになった日本社会の反映であるように見える。そして、未来には希望がある。

もちろん彼らが生まれ育った時代は冷戦の真っ只中だったし、まだまだ社会には現在から見れば「古い」思考が残っていたのかもしれないし、そこに生まれ育った人たちは「現代の方が良い」という可能性もあるが、しかし、未来への希望はあったはずだ。それとも若者はいつの時代も未来に不安を持っていたものだろうか?

僕が生まれた1998年は村上龍が「希望の国エクソダス」を連載し始めた年である。「この国には希望だけがない」と村上龍が書いてから約20年、この国には依然として希望はないし、それどころか「物質的な豊かさ」やそれを享受できる平穏な社会までも失われつつあるのではないだろうか。僕はそんなことを思いながら今日もまた自堕落な大学生活を送る。

新宿と渋谷

世の中の人間は二つに大別される。新宿が好きな人間と、渋谷が好きな人間である。新宿も渋谷も好き、というような人間は、どちらも本当には好きではないのと同じである。

僕は街を意味もなく練り歩くのが好きなのだが、それは祖母の影響である。祖母が小さい頃に僕をあちこち連れまわしてくれたおかげで、そのような気性を得ることになった。
その祖母は渋谷を好むが、僕は新宿が好きである。
もっとも、僕は多摩の田舎の育ちであり、新宿にも渋谷にも詳しいとは到底言えないのだが、それでも歩いていて感じる雰囲気の差から新宿を好む。

まず、新宿も渋谷も猥雑だという点で共通しているが、新宿は持たざる者に優しく、渋谷はそうでない感じがする。というか、新宿という街は誰でも受け入れてくれる感がある。その点渋谷は一定の基準を満たした者、おしゃれであるとか、若いとか、お金を持っているとか、そう云った人間しか受け入れてくれないと思う。テロリストのパラソルは渋谷が舞台になることはないであろう。新宿を歩いていても疎外されていると思うことはないが、渋谷は僕にとってアウェイである。これは新宿は中央線の文化圏であり、渋谷はそうでないというところによるのではないかと思っている。 

新宿や渋谷に連なる街を考えればわかりやすいかもしれない。新宿からぶらぶらと歩いていると新大久保に至り高田馬場に至る。渋谷からぶらぶらと歩いていると青山に至り表参道に至り原宿に至る。

渋谷で、歩いていて落ち着くと感じるのは、唯一鍋島松濤公園のあたりである。あの辺は閑静な高級住宅街で、やはり僕とは人種が違うのだが、それでも鍋島松濤公園がいい公園であるからだろうか。

深夜の公園のすすめ

夏が近い。

夏は、夜でも寒くない(下手すると暑い)ので深夜の公園でぼーっとするにはいい季節である。

深夜の公園に行くと、何が得られるのか。
公園によって得られるものは違うのだが、その辺にぽつんとある小さな公園では、概ね静けさと孤独が得られる。思春期の人間にとって孤独は必ず必要な体験であると思う。缶のコーラを買ってベンチに座って静かに飲もう。緑が心地よい風にそよぐのがわかる。意外と星や月が綺麗に見えることに気づく。灯りの下にベンチがあったら本を読むこともできる。夏の夜にベンチでする読書は異様に捗る。

休前日にそこそこの大きさの公園に行けば(例:谷保第一公園)、きっとカップルを目にすることができる。深夜の公園のカップルというのは実に微笑ましい。ベンチを立ったかと思えば名残惜しげにまた抱きしめあったりしている。缶のコーラを買ってベンチに座って静かに飲みながら時々眺めよう(じっと眺めていると失礼なので)。私は他人の幸せを羨むことはない人間なので(幸せは相対的なものではないと思う)、彼らに幸あれ、と思う。大抵の場合、いつかその幸せは失われるという切なさも、良い。

ところで、深夜の公園に必ずしも一人で行く必要はない。
友人と、恋人と、静かに語り合う時間を持つのは非常に素敵なことだと思う。あんまり大勢だと静かではないので、せいぜい3、4人にしておこう。大勢で騒ぎたいならカラオケでも行けばいいのであって、深夜の公園とは目的が違う。

あなたも眠れない夏の夜にふと深夜の公園に行ってみてはいかがだろうか。くれぐれも危険な目には遭わないように注意して。