The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

雑記(2017-03-23)

定期的にくだらないことを書きたくなるし、くだらないことばかり書いていると実用的(と思われるよう)なことを書きたくなる。

昨日くらいに、自分のなかでは実用的な文章を書いたので、今はそうでないことを書きたい。実用的、ではなくて説明的、と書こうかと思ったけど、果たして説明的でない文章などあるだろうか。どんな文章にせよ、何かを説明する要素はあるのではないか。とりとめのない思考。

今日は学校に荷物を取りに行って、今度は地元に戻って、図書館で本を読み、しかるべき時間が来たらマイナンバーカードを市役所に取りに行く。それから、友人と待ち合わせて、水戸へ行く。そういう予定、あくまでも予定。

僕たちは10秒後のことすらまったく知ることができない。10秒前のことは知っているつもりでいるけれど、実際、ほとんど何も知らない。自分が捉えられたことの一部を、アナログに記憶しているだけ。アナログというのは、劣化なく保存・複製できない、という意味です。実は10秒前なんて無かったかもしれない。誰も10秒前の存在を証明することはできない。ましてや10秒後など。ただ今があるだけ。今があり、そして今がある。

大学のガイダンスがあった。政治学が何かよく知らないのに、あと2週間もしたら政治学科の授業を受けているはずだ。入試のときに2、3問間違えていたら法学部の授業を受けていただろうか。人間は「運命」のひとことであまりにも多くのことを片付けすぎじゃないか。「なぜ大学に入ったのですか」と聞かれたら、一番近いのは「まだ働きたくないから」だろうか。人間はいつまで働くつもりなんだろう。

なかなかくだらないことを書いた。でもこれでいい。というか、くだらなくないことを教えてほしい。「くだらなくないことなんて、世の中にひとつもないと思う」と昔人に話した。彼女は同意した。ドイツ語はくだらないことを書くのに向いているだろうか。日本語は向いている気がする。話題の急転換(に表される思考の飛躍)は人間の特長と思う。思考が飛躍するとき、レールの転轍機みたいなイメージが浮かぶ。まったくつながりがないのではなく、別のレールに乗るような。

何でも、始めることより終わらせることのほうが難しい。特に切り上げるタイミングも見つからないが、そろそろ書くのをやめたいので、やめる。さようなら。

政治・経済で私大を受験する人へ(1)

進路と前置き

私は国語と英語と選択科目として政治・経済を選び私大を受験しました。

受験先は、

となっており、すべての受験学部に合格できました(二重丸は進学先です)。

さて、政治・経済で受験をする人は、日本史・世界史・数学などに比べて極めて少なく、情報が手に入りづらいという面があります。ここでは、私が受験期に得た知見をいくらか共有することができればいいなと思っています。

政治・経済を選ぶメリット・デメリット

まず、メリットとしては「暗記量の少なさ」が挙げられるでしょう。私立大学、特に早慶の歴史科目では「カルトクイズ」とも評されるような、極めて多くの知識量を必要とする問題が出される傾向にあると聞きます(私は歴史科目の過去問を見てすらいないので、あくまで伝聞ですが)。
その点、政治・経済はまず教科書の厚さからして歴史とは違います。実のところ、社会科目ではありますから暗記はある程度要求されるのですが、歴史に比べればかなり少ないと言えると思います。ですから、国語や英語が不得意でそちらに力を入れたいという人には、社会科の負担を軽くできる政治・経済はお勧めです。

また、受験とは関係ありませんが、政治・経済を勉強するとニュースが面白くなるということがあると思います。日頃ニュースで取り上げられている言葉、たとえば「ゼロ金利政策」や「集団的自衛権」といった言葉も政治・経済の範囲なのです。社会科のなかで一番「普段役に立つ」科目と言ってもいいかもしれません。

続いて、デメリットですが「受験できる学校が限られる」ということがあります。これは後に詳述しますが、たとえば、早慶上智のうちで政治・経済が利用できるのは、基本的には早稲田だけです。「慶應の雰囲気が好きで、慶應以外考えられない」というような人は、まず政治・経済を選ぶべきではないでしょう。逆に、「早稲田命」とか「早慶MARCHのどこかには行きたいが、あんまり歴史はやりたくない」というような方には、勧められる科目です。

また、国立大学では「政治・経済」で受験できる学校はほとんどありません。東京学芸大学の一部の学科と、一橋大学で「倫理・政経」で受験できるというくらいしか私は知りません。学芸大の方は見たことがありませんが、一橋の「倫理・政経」の問題が解けるようになるくらい勉強するのであれば、普通に歴史科目をやったほうがいいと思いました。ですから、国立大学と併願する方には、基本的にはお勧めできません。

政治・経済で受験できる私立大学

「受験できる学校が限られる」と言いましたが、実際どのくらいの学校で政治・経済が使えるのか、例として「早慶上理」「GMARCH」の文系学部で見てみましょう(基本的に私が受験した2017年度のデータであり、2018年度以降の入試でも利用できるかどうかは、ご自分でお調べください)。

早慶上理
GMARCH

慶應上智こそないものの、多くの大学の学部学科で、政治・経済が利用できることがわかります。また、上智大学もTEAP利用入試では政経(2018-01-30 修正)が利用できたり、法政大学グローバル教養学部一般入試のように、そもそも社会科が課されていない学部もあり、慶應上智で使いづらいのを覚悟できれば、意外と選択肢は狭まらないと個人的には思っています。ここにはありませんが、たとえば関関同立成成明学でも広く利用できます。

政治・経済で私大を受験する人へ(2)に続きます。

 

政治・経済で私大を受験する人へ(2)

政治・経済で私大を受験する人へ(1)の続きです。
このページでは、参考書と勉強法についてお知らせしたいと思います。

基本的な戦略

基礎を身につけ、知識をインプットし、問題をとにかくたくさん解く。目標としては、MARCHでは社会でちょっと優位に立てるくらい、早稲田でも社会が足を引っ張ることのない程度の点数が取れるようにする。

使用した参考書

政治・経済で、難関と言われる部類の私大の受験勉強に利用できる参考書は限られますが、逆に言えば選択肢が少ないので迷わなくて済むということでもあります。個人的には、一問一答は不要と思います。参考書は基本的に新しければ新しいほどいいので、もし待てるなら購入は9月や10月くらいまで待った方がいいと思います。

  • 政治・経済標準問題精講(旺文社):問題と講義がセットになっている。問題は有名私大の過去問から引用・改変されている。政治・経済に限らず、「標準問題精講」は基本的に標準ではなくハイレベルの問題集。
  • 政経ハンドブック2014-2016(東進ブックス):見開き2ページで1つの項目を解説する恰好の参考書。フルカラーで見やすい。誤植の多さから、情報の正確性がたまに不安になるが、どうせみんなこれで勉強しているのであんまり気にせずともよい気がする。おそらく、今年2017-2019年版が出るので、それを待った方が良いかと。
  • 政治・経済用語集(清水書院):用語集はふと忘れてしまった単語があったときにぱっと調べたり、あとは毎年更新されるので、最新の情報(政経ではすぐ情報が古くなるので)を確認したいと思ったときに非常に役に立つ。センターなら要らないが、私大で政経を使うなら用語集は絶対にあった方が良いと思う。山川も用語集を出しているがこちらの方が個人的に好き。
  • 現代社会の最新時事(学研):毎年出ている、時事問題対策のための本。基本的に読み物として通読する感じ。時事問題は時間をかけすぎてもしょうがないが、全く対策しないのももったいないので、1、2回通読すれば良いかと思う。あるいは、予備校の冬期講習で「時事問題対策」のような講座があるはずなので、それを取るとか。

僕の大まかなスケジュール

  • 4月~12月:学校の授業をしっかり聞き、テストで良い点を取ることで基本的な知識を抑える。
  • 12月~2月:まず政治・経済標準問題精講(旺文社)を1周する、次いで政経ハンドブック(東進ブックス)を章ごとに読み、対応する単元の精講を問題だけ解き、講義は読まないでさらに1周。本当はもう1周すべきだったが、答えを覚えてしまった感じがしたので、やめる。精講を1周したあたりで過去問演習にも取りかかる。東進の過去問データベースを利用し、志望学部だけでなく、たとえば早稲田の商学部など受験しない学部、あとは関関同立GMARCHの問題にも取り組む。早稲田の教育学部の試験が終わったあと、「現代社会の最新時事」をパラパラ見ていたら、載っている内容がその教育の試験に出ていたことに気付き、慌てて通読する。

基本的にやる気の無い受験生だった上に、国立理系志望から(理系ができなさすぎて)文転したことなどもあって、12月までほとんど対策らしい対策はしていませんでしたが、学校の政治・経済の授業が好きで基礎が身についていたので、なんとか間に合いました。

皆さんに提案するスケジュール

いくらなんでも、12月から社会をやるというのは人にお勧めできるスケジュールではないので、1年間やってみて「こういうスケジュールだといいかな」というのを提案します。正直、受験勉強のやり方というのは千差万別なので、「こうやれば大丈夫」なんて誰にも提案できませんが、土台があったほうが良いとは思うので、ご参考まで。

  • 4月~9月:学校の授業をきちんと聞く、テスト勉強をしっかりする。もし、学校の授業が分かりにくかったりつまらなかったりする場合は、「畠山のスパっとわかる政治・経済爽快講義」で勉強してください。テスト勉強以外の勉強をしていないと不安な場合は、センター試験向けの問題集をやってください。センター試験は良問が多いので、受けない人にもおすすめです。
  • 9月後半~:上で私が12月からやったことをここで始めるといいと思います。参考書も新しくなったものがこの辺で出揃ってくると思いますから、このあたりで買いましょう。この段階で新しくなっていないものは、その年は改版されることはないでしょう。知識は絶対にインプットしなければいけないのですが、アウトプットとして問題演習を多くこなすことを心がけましょう。いくら頭の中に知識があっても、それを答案に書けなければ意味がないです。

さいごに

私立文系で何が一番重要な科目か? と問われれば、間違いなく「英語」と答えます。早稲田なんかは比較的均等な方ですが、慶應などは英語:社会=2:1の比率で配点を与えたりしています。社会ばっかりやり過ぎて、英語や国語ができないということがないようにしてください。政治・経済で最も有利な点があるとすれば、負担が軽い分英語や国語に時間を回せるということだと思います。

また、ここに書いていることは間違っているかも知れませんし、たとえ間違っていなかったとしてもご自分に合っているとは限りません。ご自分の受験なのですから、ご自分で調べて、適宜他人の情報を参考にしつつ自分のやり方を発見して頂ければ、などと、怠惰な受験生活を送っていたくせに偉そうなことを述べて筆を措きます。最後までお読み頂きありがとうございました。

思考力と思考について

書店で『論理哲学論考』(丘沢静也訳)と『効率的なWebアプリケーションの作り方』を買ったので、パラパラと読んだ。

まず、『論理哲学論考』より少し引用する。

1.21  ひとつのことはそうであるか、そうでないかのどちらかだが、その他のことはすべてそのままである可能性がある。

続いて、『効率的な~』より少し引用する。

 人が何かを認識する際に頭の中に思い描く抽象的な世界のことをメンタルモデルといいます。オブジェクト指向を使う本質的な目的は、メンタルモデルをそのままプログラムに反映することです。プログラムを実装することや実装されたプログラムを理解することは簡単なことではありません。メンタルモデルをそのまま反映することができれば、自然なプログラムを作ることができ、そのプログラムを理解しやすくなります。

私がこれらの文章を読んで思ったのは、「何を言っているか解らない」ということだ。ついで、「思考力がない」と感じた。両方の文章に共通するのは、文章自体が難解なわけではない、ということだ。難しい語彙が使われているから解らないのではないし、複雑な構造の文章だから解らないのでもない。文章が意味している概念が理解できないから、解らないのだと思う。私にはこれらの概念を理解するための思考をする能力がない。少なくとも、すぐに理解するには足りないし、理解するために考え続けられるような持続力もない。

私は世間的には評価される部類の高校や大学を出る予定で、このことから私が知的に優れていると見る人もいるかもしれないが、私が他者より優れていると思うのは記憶力であって、思考力ではない。記憶力が優れているのは、ペーパーテストの問題解決については、特に論述のない試験では有利かもしれない。しかし、現実の問題解決においてはどうだろう。現実の問題を解決するために、思考が要求されるとする。その思考は、ある程度の知識は要求するだろうから、記憶力があり知識量が豊富であることはマイナスに働くことは少ないだろう。だが、大きくプラスに働くというものでもないと感じる。一定程度の知識があれば、あとの知識は現実には好きなだけ調べることができるし、そうする時間も(ペーパーテストよりは)ある。

もし、人間が機械に代替されない能力を有しているとしたら、柔軟な思考力であると思っている。ここでは、思考力を何らかの知識や概念を発展させ、別の事柄を生み出す能力と定義する。そうすると、思考の定義も「何らかの知識や概念を発展させ、別の事柄を生み出すこと」となるのだろうが、これだけが思考とは言えない。よくわからない。とりあえず、思考力を上記のように定義する。狭義の思考力としてもいい。

さて、少なくとも記憶力は確実に代替されうるし、既に記憶を機械に外部化することは一般的である。スマートフォンのアドレス帳を見れば解る。そして私には、人間の特質であるところの思考力が、せいぜい人並み程度にしかない。もしかしたら、人並み程度にもない。「頭を使ってない」と人によく言われるし、自分でもよくそう感じる。

それでは、思考力を伸ばすにはどうすれば良いだろうか。速く走りたいと思ったら、おそらく「筋力をつける」「速く走れるフォームを身につける」といったことをするだろう。つまり、「能力」と「能力の使い方」である。これを思考力に置き換えれば、「脳の能力を上げる」「考えるフォームを身につける」といった具合になるのだろうか。「脳の能力」とはなんだろう。「筋力」は「瞬発力」(瞬間的に一定の力を出すことができる)や「持久力」(持続的に一定の力を出し続けることができる)に置き換えることができるだろうから、脳の能力も「脳の瞬発力」と「脳の持久力」に置き換えてみる。

「筋力」が筋肉に負荷をかけることで上がるように、脳に負荷をかけることで「脳の能力」も上がるだろうか。経験から言えば、なんとなく上がる気はする。筋肉のように純粋に筋肉に負荷をかけることは難しく、「何らかの行為をする上で負荷がかかる」という感じだが。難しい数学の問題を解き続けていたら、脳の能力が上がるような感じがする。たとえば、脳の持久力が。とりあえず、何らかの手段で「脳の瞬発力」や「脳の持久力」が上がったとして、それではそれをどのように使うかということを考えてみる。走ることで言ったら、走るフォームの部分だ。

しかし、ここからが、本当にわからない。まず「考える」という行為は、「走る」ほど明確な行為ではない。個人的には、思考は言語に先立つと思っている。つまり、「思考」というのは漠然としたもので、そのなかで「言語」で(大まかには)記述できたものだけが当人にも理解、記憶できるものだと思っている。だから思考というプロセス「そのもの」は言語化できないのではないか。言語化された思考と、思考することは別物である。他者から観測できる、走るというプロセスすら言語化することは難しい。行動に表れない、意識の中で行われる思考というプロセスを言語化することは、極めて難しいか、できないと思うのだ。走るフォームを言葉で、あるいは手取り足取り教わったり教えたりするようには、考えるフォームを教わったり教えたりすることはできない。また、「走る」という動作に比べて「考える」という動作は、個人差が大きい「かもしれない」。自分の考えるプロセスすら言語化できず、観測できず、よって理解もできないので、他人のそれなどは未来永劫理解できないだろうので、「かもしれない」という言い方になる。

長々と文章を書いてきて、これ自体が「思考」を「言語化」する作業である。結局のところ「思考する」という行為についても「思考力」についても「さっぱり解らない」と思ってしまう。私より思考が鋭敏な人には思考という行為それ自体もより正確に理解されているのだろうか? だがその人の思考プロセスは私のそれとは全く異なっている可能性もある。やっぱり、さっぱり解らない。

ムーブメント

一昨日だったと思う。

夜、立川駅南口のペデストリアンデッキで、女の人が電話をしながら、ふとデッキの柵から身を乗り出して下を覗き込んだ。そのあと女の人はどこかへ歩き去ってしまった。

あの下に何かあるのだろうか? と思って僕も覗き込んだ。暗闇しかなかった。

もしかしたら、僕が覗き込んだのを見て、別の人も覗き込むかもしれない。そしてまた別の人がそれを見て覗き込むかもしれない。

連鎖的に、暗闇を覗き込んでいく集団。そんなものが自然発生したら面白いなと思った。

村上春樹が進研ゼミ高校講座のDM担当者だったら

「完璧な解答などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 僕が高校に入って最初のテストを受けたあと、担任が答案を返却しながら僕にそう言った。その解答用紙には六月の空のような空虚な数式が並んでいた。僕はそのテストで、自分が人よりも数学の才能がないことを思い知ることになった。今となってはそれはとても些細な――マヨネーズやアボカドやデヴィッド・ボウイに比べてということだが――事柄だったとわかるけれど、当時の僕はずいぶんと思い悩んだ。

 その頃、ホーム・ルームで僕の隣の席に座っていた女の子はとても数学がよくできた。僕は彼女に相談してみようと思って、ある日の昼休みに話しかけた。
「ねえ、君は数学がどうしてそんなに得意なの?」
「それは、一つには生まれつきのものなのよ。才能、と言うと少し大げさだけれど、足の速い人や絵が上手な人がいるように、数学ができる人もいる」
「じゃあ、僕は数学ができるようになることはないのかな」
「あるいは。でも、方法がないわけじゃないわ」
「その方法というものを教えてくれないかな。もし、君がよければ、の話だけど」
「ええ、じゃあもうすぐ授業だから、放課後にまた話しましょう。六時に駅前のカフェでいいかしら」
「わかった。ありがとう」
 彼女はうなずくと、机の上にあったオックスフォードの英英辞典とペン・ケースを持って、教室を立ち去った。僕は予鈴のチャイムが鳴るのを聞きながら、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

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谷保観光案内

序文

東京西部・国立市に、谷保(やほ)という街がある。

国立といえば、一橋大学桐朋学園など数々の名門校を擁し、「西の成城」と言われることもある多摩地区が誇る文教都市である。筆者に言わせれば、成城学園が「東の国立」だろうと思うが、そこを堪えて笑顔を保つのが国立の洗練、そして品格である。勝者は、殊更に勝利を強調する必要はないのだ。

同市の中心駅として国立駅があり、南口からまっすぐに伸びた大学通りは同市の目抜き通りであるとともに、広い緑地帯に植えられた種々の街路樹が季節の移ろいを感じさせてくれる、美しい道である。ちょうどこの時期は、立ち並ぶ銀杏の木にイルミネーションが施され、一層フォトジェニックになる。

さて、その大学通りを道なりに歩くと、やがて貴方は谷保駅を中心とする谷保という街にたどり着く。谷保駅は戦時中に空襲によって焼失し、戦後の資材難の時期に再建されたものである、などともっともらしく説明しても誰も疑わないような駅舎を持つ駅である。つい先日、ようやく地上から橋上駅舎へと移動できるエレベータが設置された。エレベータを設置するのは大変な難工事であり、筆者が高校に入学した頃には工事が始まり、丸3年が経たんとするこの時期になってやっと完成した。

この時期、南口の駅前には国立同様イルミネーションが灯っているが、そのイルミネーションはその辺の一軒家の方が煌びやかなのではないか、という代物であり、「存在する方が淋しい」という一種の逆説的な感情を見る者に与える。

反対側の北口は、ロータリーやコンビニ・居酒屋などもあり、一応駅前としての体裁を保っている南口と比べて、住宅街の中に突如駅があるといった様相を呈している。廃屋同然の建物に「瞑想室」と書かれた看板が掛かっており、とても気になる。

谷保は一見、大変淋しい街である。谷保にある谷保(やぼ)天満宮は「野暮天」「野暮」の語源になったとも言われるくらいであり、それを地名の由来に持つ谷保が、国立のように洗練された街とは程遠い街であることは自明である。

しかし、谷保には国立のように「わかりやすい」ものではないが、大変奥深い魅力が存在する。いささか前置きが長くなったきらいがあるが、この文章は、ともすれば国立の陰に隠れがちな谷保の魅力をつまびらかにすることを目的としている。

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