The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

谷保観光案内

序文

東京西部・国立市に、谷保(やほ)という街がある。

国立といえば、一橋大学桐朋学園など数々の名門校を擁し、「西の成城」と言われることもある多摩地区が誇る文教都市である。筆者に言わせれば、成城学園が「東の国立」だろうと思うが、そこを堪えて笑顔を保つのが国立の洗練、そして品格である。勝者は、殊更に勝利を強調する必要はないのだ。

同市の中心駅として国立駅があり、南口からまっすぐに伸びた大学通りは同市の目抜き通りであるとともに、広い緑地帯に植えられた種々の街路樹が季節の移ろいを感じさせてくれる、美しい道である。ちょうどこの時期は、立ち並ぶ銀杏の木にイルミネーションが施され、一層フォトジェニックになる。

さて、その大学通りを道なりに歩くと、やがて貴方は谷保駅を中心とする谷保という街にたどり着く。谷保駅は戦時中に空襲によって焼失し、戦後の資材難の時期に再建されたものである、などともっともらしく説明しても誰も疑わないような駅舎を持つ駅である。つい先日、ようやく地上から橋上駅舎へと移動できるエレベータが設置された。エレベータを設置するのは大変な難工事であり、筆者が高校に入学した頃には工事が始まり、丸3年が経たんとするこの時期になってやっと完成した。

この時期、南口の駅前には国立同様イルミネーションが灯っているが、そのイルミネーションはその辺の一軒家の方が煌びやかなのではないか、という代物であり、「存在する方が淋しい」という一種の逆説的な感情を見る者に与える。

反対側の北口は、ロータリーやコンビニ・居酒屋などもあり、一応駅前としての体裁を保っている南口と比べて、住宅街の中に突如駅があるといった様相を呈している。廃屋同然の建物に「瞑想室」と書かれた看板が掛かっており、とても気になる。

谷保は一見、大変淋しい街である。谷保にある谷保(やぼ)天満宮は「野暮天」「野暮」の語源になったとも言われるくらいであり、それを地名の由来に持つ谷保が、国立のように洗練された街とは程遠い街であることは自明である。

しかし、谷保には国立のように「わかりやすい」ものではないが、大変奥深い魅力が存在する。いささか前置きが長くなったきらいがあるが、この文章は、ともすれば国立の陰に隠れがちな谷保の魅力をつまびらかにすることを目的としている。

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死ぬくらいなら

自殺した人に向かって「死ぬくらいなら会社や学校をやめたりできただろう」と言う人がいる。

合理的に考えればその通り、どうせ死ぬんだったら会社をやめたって学校に行かなくたって別にいいじゃないか、となるんだけど、そこまで冷静に判断できるような人は自殺しないんじゃないかと思う。

人間って眠気が限界を超えると勝手に寝ていることが多いけど、それと同じで、疲労が限界を超えると勝手に死ぬようにできているのではないか。「過度の疲労」という生命の危機から逃れる方法が死だなんて矛盾していると思うけど。

なんだか疲れたり、落ち込んだりしているときに駅のホームで電車を待っていたりすると、「いま、あと一歩踏み出したら楽になれるな」などと思うのは結構誰でもやったことがある気がする。多くの人は、「楽になれるな」と思うだけで少し余裕が出てきたり、あるいはそこまでの勇気はなくて踏みとどまることができるんだけど、(肉体的・精神的な)疲労によって冷静な思考力と精神的な余裕を欠いた人は「楽になれるな→楽になろう」と短絡的に行動してしまうのではないか。

文末が「ではないか」とか「なんじゃないか」とかばっかりだけど、自殺したことがないので自殺する人の精神状態を推察することしかできないので、仕方ない。この推察さえも、まったく見当外れに終わっている可能性もある。それに、ここでは「肉体的・精神的な疲労によって追い込まれた人の自殺」を考えているけど、もうずっと希死念慮を抱えていたり、あるいは何らかの精神病に由来したり、自殺の理由は星の数ほどあるだろう。大した理由もなく自殺する人もきっとたくさんいる。

恋人や友人が自殺しないためにはどうすれば良いのかと考える。死ぬ前に「この人、もう限界が近いな」と気付いて、その人を追い込んでいるものから逃れさせることができればいいのだけど。しかし、実際には恋人や友人でもその人の心中や思考を完全に理解することはできないので、その「フラグ」を見落としてしまうことも、結構多そうだ。もし「この人死にそうだな」と気付けたら、無理矢理美味しいものを食べに行ったりできるのだけど。

死ぬくらいなら、寿司やステーキやスイーツを食べてから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、お金借りてでも高級ソープに行ってから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、自分を死ぬまで追い込んだ奴に一泡吹かせてから死んだ方が良いのだけど、食べたりセックスしたり復讐したりというのは極めて生命力に溢れた行動なので、自殺する直前の人に、そういうことを思い至らせるのはたぶん難しい。難しいけど、できれば死んで欲しくない。

死ぬくらいなら、とりあえず全財産はたいて、美味しいものおごってからにしてくれよ、と「死にたい」と零す友人には言っているんだけど。死ぬ前に、奇跡的にその言葉を思い出してくれることを期待して。

1993年

北野武の「ソナチネ」を観た。映画それ自体もとても洗練されていて面白かったのだが、映画を観ていて思ったことがあった。

ソナチネは、1993年公開の作品であるが、2016年の現実と比べて、あまり作中の景色が変わっていないのだ。ぱっと見てわかる違いは、車のデザインと携帯電話が使われていないことくらいか。

23年前、生まれる前の時代の日本と、現在の日本がほとんど変わらないというのはなんだか不思議な気分で、たとえば1970年と1993年の風景を比較したときに明確な違いがあるだろうことを考えると、この23年間の日本の発展してなさが気になる。いや、情報通信関連では大いなる発展があったんだろうけど。

いまから23年後は2039年で、随分と未来を感じさせる数字だが、2016年からさして変わらないんじゃないか、と思わないでもない。

若いうちに

今、18歳だ。築18年のアパート、と聞くとそれなりの古さを感じるが、18歳の人間はまだ若い。

あと半年したら、19歳になる。ついでに大学生になっているかもしれない。それから1年したら、20歳になって、法律上成人ということになる。このタイミングで大学生になっている可能性もある。

ついこの間まで、15歳だったと思う。高校受験に向けて、それなりに勉強をしていたし、塾で友人をつくることを覚えて、少し変わった人間とつきあい始めた。

高校受験に成功して、それなりの期待を持ちながら高校に入学して、期待を裏切られる部分もありながらも、いろいろなことに顔を突っ込んだり煙たがられたり彼女ができたり別れたり芝居を打ったりしているうちに、あと半年で卒業、というところまで来てしまった。あっという間の3年間。気付けば僕は18歳。あと1年半で成人。それから大学を出て場合によっては就職するかもしれない。時の流れが速い。

たぶん、若いうちにしかできないことがたくさんあって、たとえば恥ずかしい恋愛をするとか、漠然と将来に不安を持つとか、深夜に突然友人に電話してしまうとか、河原で叫びだしてしまうとか、そういったことがいつまでできるだろうか、と思う。あと5年くらいじゃないか。

おそらく歳を取るとともに、生きることに慣れてしまって、物事に心を揺さぶられるとか、何かを恥ずかしく思うということが少なくなってくるのではないだろうか。そうなる前に、若いうちにしか味わえない感情や行動をたくさん経験しておきたい。このブログは今考えていることを記録しておきたいという意味もあるのかもしれない。

というわけで、とても若いということに価値がある(=歳を取りたくない)と思っているんだけど、この前文化祭で演劇をやって、公演に演劇の原作者であるゲキバカの柿ノ木さんが来てくださり、「おっさんになっても楽しいことはありますから」みたいなことを言っていたのが印象的で、その言葉に結構励まされている。

がんばれない

今までの人生で、何かを頑張って、できなかったことをできるようにしたといった経験があまりない。

ただ単にできなかったことができるようになったという経験はあるけれど、それは努力の末というよりは、自然とできるようになったことが多くて、意識的に「これをできるようになる」と決めてできるようになった経験に乏しい。

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高1の冬、東京・大阪間をヒッチハイクした話

2年前、高校1年の冬休みに、東京から大阪までヒッチハイクで往復したことがある。id:phaさんの文章を読んでいて、急にそのことを思い出したので、文章で記録しておこうと思う。

なんかお金もないけど時間はあって、ちょっと変わった旅をしてみたいなあ、という人は読んでみてほしい。

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