The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

60年代に生まれたかった

僕は1998年の生まれだ。

2002年に幼稚園に入った。2005年に小学校に入った。小学校を出る直前に東日本大震災があった。2014年に高校に入った。2017年に大学生になった。

うまく行けば、2021年に大学を卒業する。

僕が成長して来た時代は、日本という国が着実に衰退を遂げて来た時代である。

いつの日か、「(人間は進歩しているのだから)今が、今までで一番いい時代」というような文言を見た記憶がある。なるほど、世界全体で見ればそれは正しいのかもしれない。そもそも人間が「進歩」しているか、疑問は残るが。

しかし日本の一番「いい時代」は、今ではないと思われる。

やり場のない閉塞感、余裕のない社会、目的を見失った政治、複雑化する世界、そのような世の中で僕らは育ってきた。そして、先行きに希望を持つことは、非常に難しい。同世代の人間がどう思っているか知らないが、「日本という国はすぐに滅びるかもしれない」という思いを持ちながら僕は生きている。僕はこの国が、特にこの国の都市や自然や文学が好きなのに。

60年代に生まれて、80年代に大学生活を送りたかったなとたまに思う。

80年代と現代の日本人では、物質的な豊かさはほとんど変わらないのではないだろうか(あるいは、大学生に限っては、行く人が限られていた分前者の方が豊かだった可能性も大いにある)。

穂村弘鷺沢萠のエッセイには、80年代の大学生活(二人とも、奇しくも上智大学を出ている)についての描写がある。そこに描かれているのは、きらびやかで、自由で、文化的にも豊かな大学生活である。それは、高度経済成長を遂げ、世界屈指の経済大国となり、物質的な豊かさを享受し、精神的な豊かさを志向するようになった日本社会の反映であるように見える。そして、未来には希望がある。

もちろん彼らが生まれ育った時代は冷戦の真っ只中だったし、まだまだ社会には現在から見れば「古い」思考が残っていたのかもしれないし、そこに生まれ育った人たちは「現代の方が良い」という可能性もあるが、しかし、未来への希望はあったはずだ。それとも若者はいつの時代も未来に不安を持っていたものだろうか?

僕が生まれた1998年は村上龍が「希望の国エクソダス」を連載し始めた年である。「この国には希望だけがない」と村上龍が書いてから約20年、この国には依然として希望はないし、それどころか「物質的な豊かさ」やそれを享受できる平穏な社会までも失われつつあるのではないだろうか。僕はそんなことを思いながら今日もまた自堕落な大学生活を送る。