The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

死ぬくらいなら

自殺した人に向かって「死ぬくらいなら会社や学校をやめたりできただろう」と言う人がいる。

合理的に考えればその通り、どうせ死ぬんだったら会社をやめたって学校に行かなくたって別にいいじゃないか、となるんだけど、そこまで冷静に判断できるような人は自殺しないんじゃないかと思う。

人間って眠気が限界を超えると勝手に寝ていることが多いけど、それと同じで、疲労が限界を超えると勝手に死ぬようにできているのではないか。「過度の疲労」という生命の危機から逃れる方法が死だなんて矛盾していると思うけど。

なんだか疲れたり、落ち込んだりしているときに駅のホームで電車を待っていたりすると、「いま、あと一歩踏み出したら楽になれるな」などと思うのは結構誰でもやったことがある気がする。多くの人は、「楽になれるな」と思うだけで少し余裕が出てきたり、あるいはそこまでの勇気はなくて踏みとどまることができるんだけど、(肉体的・精神的な)疲労によって冷静な思考力と精神的な余裕を欠いた人は「楽になれるな→楽になろう」と短絡的に行動してしまうのではないか。

文末が「ではないか」とか「なんじゃないか」とかばっかりだけど、自殺したことがないので自殺する人の精神状態を推察することしかできないので、仕方ない。この推察さえも、まったく見当外れに終わっている可能性もある。それに、ここでは「肉体的・精神的な疲労によって追い込まれた人の自殺」を考えているけど、もうずっと希死念慮を抱えていたり、あるいは何らかの精神病に由来したり、自殺の理由は星の数ほどあるだろう。大した理由もなく自殺する人もきっとたくさんいる。

恋人や友人が自殺しないためにはどうすれば良いのかと考える。死ぬ前に「この人、もう限界が近いな」と気付いて、その人を追い込んでいるものから逃れさせることができればいいのだけど。しかし、実際には恋人や友人でもその人の心中や思考を完全に理解することはできないので、その「フラグ」を見落としてしまうことも、結構多そうだ。もし「この人死にそうだな」と気付けたら、無理矢理美味しいものを食べに行ったりできるのだけど。

死ぬくらいなら、寿司やステーキやスイーツを食べてから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、お金借りてでも高級ソープに行ってから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、自分を死ぬまで追い込んだ奴に一泡吹かせてから死んだ方が良いのだけど、食べたりセックスしたり復讐したりというのは極めて生命力に溢れた行動なので、自殺する直前の人に、そういうことを思い至らせるのはたぶん難しい。難しいけど、できれば死んで欲しくない。

死ぬくらいなら、とりあえず全財産はたいて、美味しいものおごってからにしてくれよ、と「死にたい」と零す友人には言っているんだけど。死ぬ前に、奇跡的にその言葉を思い出してくれることを期待して。