The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

新宿と渋谷

世の中の人間は二つに大別される。新宿が好きな人間と、渋谷が好きな人間である。新宿も渋谷も好き、というような人間は、どちらも本当には好きではないのと同じである。

僕は街を意味もなく練り歩くのが好きなのだが、それは祖母の影響である。祖母が小さい頃に僕をあちこち連れまわしてくれたおかげで、そのような気性を得ることになった。
その祖母は渋谷を好むが、僕は新宿が好きである。
もっとも、僕は多摩の田舎の育ちであり、新宿にも渋谷にも詳しいとは到底言えないのだが、それでも歩いていて感じる雰囲気の差から新宿を好む。

まず、新宿も渋谷も猥雑だという点で共通しているが、新宿は持たざる者に優しく、渋谷はそうでない感じがする。というか、新宿という街は誰でも受け入れてくれる感がある。その点渋谷は一定の基準を満たした者、おしゃれであるとか、若いとか、お金を持っているとか、そう云った人間しか受け入れてくれないと思う。テロリストのパラソルは渋谷が舞台になることはないであろう。新宿を歩いていても疎外されていると思うことはないが、渋谷は僕にとってアウェイである。これは新宿は中央線の文化圏であり、渋谷はそうでないというところによるのではないかと思っている。 

新宿や渋谷に連なる街を考えればわかりやすいかもしれない。新宿からぶらぶらと歩いていると新大久保に至り高田馬場に至る。渋谷からぶらぶらと歩いていると青山に至り表参道に至り原宿に至る。

渋谷で、歩いていて落ち着くと感じるのは、唯一鍋島松濤公園のあたりである。あの辺は閑静な高級住宅街で、やはり僕とは人種が違うのだが、それでも鍋島松濤公園がいい公園であるからだろうか。

深夜の公園のすすめ

夏が近い。

夏は、夜でも寒くない(下手すると暑い)ので深夜の公園でぼーっとするにはいい季節である。

深夜の公園に行くと、何が得られるのか。
公園によって得られるものは違うのだが、その辺にぽつんとある小さな公園では、概ね静けさと孤独が得られる。思春期の人間にとって孤独は必ず必要な体験であると思う。缶のコーラを買ってベンチに座って静かに飲もう。緑が心地よい風にそよぐのがわかる。意外と星や月が綺麗に見えることに気づく。灯りの下にベンチがあったら本を読むこともできる。夏の夜にベンチでする読書は異様に捗る。

休前日にそこそこの大きさの公園に行けば(例:谷保第一公園)、きっとカップルを目にすることができる。深夜の公園のカップルというのは実に微笑ましい。ベンチを立ったかと思えば名残惜しげにまた抱きしめあったりしている。缶のコーラを買ってベンチに座って静かに飲みながら時々眺めよう(じっと眺めていると失礼なので)。私は他人の幸せを羨むことはない人間なので(幸せは相対的なものではないと思う)、彼らに幸あれ、と思う。大抵の場合、いつかその幸せは失われるという切なさも、良い。

ところで、深夜の公園に必ずしも一人で行く必要はない。
友人と、恋人と、静かに語り合う時間を持つのは非常に素敵なことだと思う。あんまり大勢だと静かではないので、せいぜい3、4人にしておこう。大勢で騒ぎたいならカラオケでも行けばいいのであって、深夜の公園とは目的が違う。

あなたも眠れない夏の夜にふと深夜の公園に行ってみてはいかがだろうか。くれぐれも危険な目には遭わないように注意して。

1億2000万の凡人

 朝の百人町をぶらぶらと歩いていた。

 やがて都営住宅の中にある公園にたどり着き、そこのベンチでぼんやりとしながら公園を行く人々を眺めていた。

 身なりの良い、杖のついた老人が静かに煙草を吸っていた。その顔は何事にも興味がないかのように見えた。彼は何を楽しみに生きているんだろうと僕は思った。サラリーマンが何人も通りかかっていった。一様に無表情で、だいたい缶コーヒーを片手に持っていた。作業服を着たおじいさんが鳩にパン粉のようなものをばらまいてやっていた。そうして鳩がパン粉の方に集って行ったところでゴミの分別をし始めた。老人が太極拳のようなものを、ラジカセで音楽を流しながらやっていた。小学生が大量の空き缶をビニール袋に入れて学校へ向かっていた。

 この公園にいる人々は誰も天皇生前退位共謀罪の法案に特段の興味は抱いていないだろうと思った。彼らは決して国会議事堂の前でデモに参加して、テレビカメラに向かって自分の意見を主張したりしないだろうと思った。

 テレビカメラに向かって自分の意見を主張する人ばかりが世の中では目立つが、彼らのような人種は人口のごくごく少数で、世の中の大多数は、朝の百人町の公園にいるような人々だ。習慣的な毎日を過ごし、たまの贅沢で家に寿司を買って帰り、スーパーのチラシを見て家の近くのどちらのスーパーの方が安いかを比較している人々だ。テレビカメラに向かって自分の意見を主張する、才気溢れる(あるいはそのように自分を見せることのできる才能がある)人々ではなく、1億2000万の凡人がこの国を動かしているのだ。

 名もなき1億2000万の凡人のことを大切にする世の中になればいいなとベンチでぼんやりと考えていた。

幼稚園の頃

僕は1998年の生まれで、2002年から2004年にかけて幼稚園時代を過ごした。

最近のことも全然覚えていられないので、幼稚園の頃の思い出なんてほとんどは詳しく覚えていないのだが、なんとなくあの時代の雰囲気のようなものが良かった気がしている。

僕は国分寺で祖母と二人暮らしをしていた。父親はおらず(僕は実父の顔すら見たことがない)、母親は僕と祖母を養うために働いていて、あまり家に帰ってこなかった。それでも僕は寂しさを感じた覚えはなく、というのも祖母は僕のことを溺愛していると言ってもいい状態だったし、母も自分のことを大事にしてくれていることが会えばわかった。

祖母はあまり家でじっとしているのを好むタイプではなく、そんな人に育てられたせいか僕もそうなってしまった。

幼稚園が終わると、木曜日は必ずバスに乗って東大和イトーヨーカドーに行っていた記憶がある。なぜ木曜日だったのかは覚えていない。多分、幼稚園の後に行っていた学研教室の曜日だったとか、そういう理由だと思う。

イトーヨーカドーの中に入っているポッポでよくポテトやソフトクリームを食べた。書店で何か本を買ってもらえるまで帰らず祖母を困らせた。よくクレヨンしんちゃんの漫画を買った。

土日はよく科学館や博物館などに行ったりした。多摩六都科学館に何度行ったことだろう。あとは図書館にも頻繁に行っていた。家から最も近かった、国立の北市民プラザ図書館にばかり行っていた。図書館には漫画はないので、図鑑をよく読む子どもだった。北市民プラザのロビーで瓶のビックルを常に飲んでいた。

他に、家の近くには江ノ島フードセンターという1970年代にできたスーパーがそのまま現代まで生き残ったみたいな感じの店があって、よくそこでフルタ製菓チョコエッグを買った。中身よりもあのチョコレートが好きだった。あとは老夫婦が営む中華料理屋があって、ラーメンなんかを食べに行くと必ずみかんなどの果物をお土産にくれた。どちらの店も幼稚園を出る前には閉店してしまった気がする。

家の目の前は国税庁防衛庁の職員宿舎で、必然的に僕の友達は公務員の息子や娘が多かった。そんな中で僕は髪が金髪だったり片親だったりなかなかファンキーな幼稚園児だったのだがみんな本当に良くしてくれた。それらの職員宿舎も僕が小学校に上がる頃だかに建て替えの話が持ち上がり、今ではもう見る影もない。

 

高校に入ってから、自転車で幼稚園の頃住んでいたあたりを巡った。家の近くにあったオリンピックにはまだ古臭いマクドナルドが入っていた。北市民プラザのロビーにはまだビックルがあった。防衛庁の職員宿舎は近代的に生まれ変わっていた。僕の幼稚園で働いていた先生はおそらくもう誰もいなかった。変わらないものも変わってしまうものもある。どちらにしろもうあの頃に戻ることはできないし、実際のところ戻りたいとも思わない。

世の中はどんどん混沌としてきている気がするし、自分も周りの人間も成長したので余計な機微が発生するようになったし、辛いことも多い。だけれども技術は進歩し(スマートフォンがなかった頃、世の中の人は何をしていたんだろう?)、自分でできることは格段に多くなり、楽しいことも増えた。

ただ、たまに幼稚園の頃が懐かしくなる。僕が生きてきた中で、幼稚園の頃が一番静かで落ち着いた生活を送れていた。平和で、幸福で、純粋な時代だった。生きていると勝手に物事が複雑になっていって、いつのまにか自分のキャパシティを超えている。そんな時、シンプルで陽気だった生活をふと思い出すのだ。

近況

しばらくブログを書かなかった。

大学に入って、新しい環境に馴染むのに精一杯だったからだと思う。
まだ馴染めているとは言い難いのだが、最近になって少し余裕が出てきたか。

このブログを作ったのは高3の夏で、同じ高校の人にはすでに自分がどういう人間かがわかった状態でここの文章を読んでもらうことになるので、今更特に問題はなかったのだが大学に入ってから出会った人にここにある拙文を読まれるのは少々恥ずかしい。

しかし、いつかは自分がどういう人間かを大学の人も把握するわけだから、いいか、という気分で駄文をまた書いている。

僕は永遠に国高生でいる気がしたのに、気づいたら早大生をやっているのが未だに実感がない。今思えばあそこはいい学校だった。好みが分かれそうだが僕にはぴったりの学校だったと思う。

大学に入って、勉強しなければならない、という感じが強くしていたのだけど、最近はなんだか五月病気味でやる気がない。勉強にやる気がないわけではなく、基本的にあらゆるものへのやる気がないので、特段勉強がどうこうというわけではないんだけど。しかし五月病とは素敵な日本語だ。

大学に入ったら多少は今までと違うことをやろうかなと思っていたのだが、結局高校と同じようなことをやりそうな感じがしている。お祭りごとに精力を注いで、自堕落な生活を送り、勉強はなんとか留年は回避するみたいな。本当に高校時代そのものだ。

しかし大学ほど幅広い知が集まっているところも珍しいので、大学の環境を利用できるうちに学士にふさわしい教養を身に付けたいなという思いもある。早大生ならそんなことしていないで馬鹿騒ぎをしろという向きもありそうだが、勉強熱心な人も含めて色々な人がいるのが弊学の魅力ではないか。できれば馬鹿にならずにバカバカしくやりたい。

日常の感情磨耗作用とはすごいもので、せわしい日々を過ごしていると何も感じなくなってしまう気がする。今もちょっとその影響あって(そして徹夜明けということもあって)まとまりのない文章しか書けていないが、とりあえず投稿しておく。

雑記(2017-03-23)

定期的にくだらないことを書きたくなるし、くだらないことばかり書いていると実用的(と思われるよう)なことを書きたくなる。

昨日くらいに、自分のなかでは実用的な文章を書いたので、今はそうでないことを書きたい。実用的、ではなくて説明的、と書こうかと思ったけど、果たして説明的でない文章などあるだろうか。どんな文章にせよ、何かを説明する要素はあるのではないか。とりとめのない思考。

今日は学校に荷物を取りに行って、今度は地元に戻って、図書館で本を読み、しかるべき時間が来たらマイナンバーカードを市役所に取りに行く。それから、友人と待ち合わせて、水戸へ行く。そういう予定、あくまでも予定。

僕たちは10秒後のことすらまったく知ることができない。10秒前のことは知っているつもりでいるけれど、実際、ほとんど何も知らない。自分が捉えられたことの一部を、アナログに記憶しているだけ。アナログというのは、劣化なく保存・複製できない、という意味です。実は10秒前なんて無かったかもしれない。誰も10秒前の存在を証明することはできない。ましてや10秒後など。ただ今があるだけ。今があり、そして今がある。

大学のガイダンスがあった。政治学が何かよく知らないのに、あと2週間もしたら政治学科の授業を受けているはずだ。入試のときに2、3問間違えていたら法学部の授業を受けていただろうか。人間は「運命」のひとことであまりにも多くのことを片付けすぎじゃないか。「なぜ大学に入ったのですか」と聞かれたら、一番近いのは「まだ働きたくないから」だろうか。人間はいつまで働くつもりなんだろう。

なかなかくだらないことを書いた。でもこれでいい。というか、くだらなくないことを教えてほしい。「くだらなくないことなんて、世の中にひとつもないと思う」と昔人に話した。彼女は同意した。ドイツ語はくだらないことを書くのに向いているだろうか。日本語は向いている気がする。話題の急転換(に表される思考の飛躍)は人間の特長と思う。思考が飛躍するとき、レールの転轍機みたいなイメージが浮かぶ。まったくつながりがないのではなく、別のレールに乗るような。

何でも、始めることより終わらせることのほうが難しい。特に切り上げるタイミングも見つからないが、そろそろ書くのをやめたいので、やめる。さようなら。

政治・経済で私大を受験する人へ(1)

進路と前置き

私は国語と英語と選択科目として政治・経済を選び私大を受験しました。

受験先は、

となっており、すべての受験学部に合格できました(二重丸は進学先です)。

さて、政治・経済で受験をする人は、日本史・世界史・数学などに比べて極めて少なく、情報が手に入りづらいという面があります。ここでは、私が受験期に得た知見をいくらか共有することができればいいなと思っています。

政治・経済を選ぶメリット・デメリット

まず、メリットとしては「暗記量の少なさ」が挙げられるでしょう。私立大学、特に早慶の歴史科目では「カルトクイズ」とも評されるような、極めて多くの知識量を必要とする問題が出される傾向にあると聞きます(私は歴史科目の過去問を見てすらいないので、あくまで伝聞ですが)。
その点、政治・経済はまず教科書の厚さからして歴史とは違います。実のところ、社会科目ではありますから暗記はある程度要求されるのですが、歴史に比べればかなり少ないと言えると思います。ですから、国語や英語が不得意でそちらに力を入れたいという人には、社会科の負担を軽くできる政治・経済はお勧めです。

また、受験とは関係ありませんが、政治・経済を勉強するとニュースが面白くなるということがあると思います。日頃ニュースで取り上げられている言葉、たとえば「ゼロ金利政策」や「集団的自衛権」といった言葉も政治・経済の範囲なのです。社会科のなかで一番「普段役に立つ」科目と言ってもいいかもしれません。

続いて、デメリットですが「受験できる学校が限られる」ということがあります。これは後に詳述しますが、たとえば、早慶上智のうちで政治・経済が利用できるのは、基本的には早稲田だけです。「慶應の雰囲気が好きで、慶應以外考えられない」というような人は、まず政治・経済を選ぶべきではないでしょう。逆に、「早稲田命」とか「早慶MARCHのどこかには行きたいが、あんまり歴史はやりたくない」というような方には、勧められる科目です。

また、国立大学では「政治・経済」で受験できる学校はほとんどありません。東京学芸大学の一部の学科と、一橋大学で「倫理・政経」で受験できるというくらいしか私は知りません。学芸大の方は見たことがありませんが、一橋の「倫理・政経」の問題が解けるようになるくらい勉強するのであれば、普通に歴史科目をやったほうがいいと思いました。ですから、国立大学と併願する方には、基本的にはお勧めできません。

政治・経済で受験できる私立大学

「受験できる学校が限られる」と言いましたが、実際どのくらいの学校で政治・経済が使えるのか、例として「早慶上理」「GMARCH」の文系学部で見てみましょう(基本的に私が受験した2017年度のデータであり、2018年度以降の入試でも利用できるかどうかは、ご自分でお調べください)。

早慶上理
GMARCH

慶應上智こそないものの、多くの大学の学部学科で、政治・経済が利用できることがわかります。また、上智大学もTEAP利用入試では政経(2018-01-30 修正)が利用できたり、法政大学グローバル教養学部一般入試のように、そもそも社会科が課されていない学部もあり、慶應上智で使いづらいのを覚悟できれば、意外と選択肢は狭まらないと個人的には思っています。ここにはありませんが、たとえば関関同立成成明学でも広く利用できます。

政治・経済で私大を受験する人へ(2)に続きます。