The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

思考力と思考について

書店で『論理哲学論考』(丘沢静也訳)と『効率的なWebアプリケーションの作り方』を買ったので、パラパラと読んだ。

まず、『論理哲学論考』より少し引用する。

1.21  ひとつのことはそうであるか、そうでないかのどちらかだが、その他のことはすべてそのままである可能性がある。

続いて、『効率的な~』より少し引用する。

 人が何かを認識する際に頭の中に思い描く抽象的な世界のことをメンタルモデルといいます。オブジェクト指向を使う本質的な目的は、メンタルモデルをそのままプログラムに反映することです。プログラムを実装することや実装されたプログラムを理解することは簡単なことではありません。メンタルモデルをそのまま反映することができれば、自然なプログラムを作ることができ、そのプログラムを理解しやすくなります。

私がこれらの文章を読んで思ったのは、「何を言っているか解らない」ということだ。ついで、「思考力がない」と感じた。両方の文章に共通するのは、文章自体が難解なわけではない、ということだ。難しい語彙が使われているから解らないのではないし、複雑な構造の文章だから解らないのでもない。文章が意味している概念が理解できないから、解らないのだと思う。私にはこれらの概念を理解するための思考をする能力がない。少なくとも、すぐに理解するには足りないし、理解するために考え続けられるような持続力もない。

私は世間的には評価される部類の高校や大学を出る予定で、このことから私が知的に優れていると見る人もいるかもしれないが、私が他者より優れていると思うのは記憶力であって、思考力ではない。記憶力が優れているのは、ペーパーテストの問題解決については、特に論述のない試験では有利かもしれない。しかし、現実の問題解決においてはどうだろう。現実の問題を解決するために、思考が要求されるとする。その思考は、ある程度の知識は要求するだろうから、記憶力があり知識量が豊富であることはマイナスに働くことは少ないだろう。だが、大きくプラスに働くというものでもないと感じる。一定程度の知識があれば、あとの知識は現実には好きなだけ調べることができるし、そうする時間も(ペーパーテストよりは)ある。

もし、人間が機械に代替されない能力を有しているとしたら、柔軟な思考力であると思っている。ここでは、思考力を何らかの知識や概念を発展させ、別の事柄を生み出す能力と定義する。そうすると、思考の定義も「何らかの知識や概念を発展させ、別の事柄を生み出すこと」となるのだろうが、これだけが思考とは言えない。よくわからない。とりあえず、思考力を上記のように定義する。狭義の思考力としてもいい。

さて、少なくとも記憶力は確実に代替されうるし、既に記憶を機械に外部化することは一般的である。スマートフォンのアドレス帳を見れば解る。そして私には、人間の特質であるところの思考力が、せいぜい人並み程度にしかない。もしかしたら、人並み程度にもない。「頭を使ってない」と人によく言われるし、自分でもよくそう感じる。

それでは、思考力を伸ばすにはどうすれば良いだろうか。速く走りたいと思ったら、おそらく「筋力をつける」「速く走れるフォームを身につける」といったことをするだろう。つまり、「能力」と「能力の使い方」である。これを思考力に置き換えれば、「脳の能力を上げる」「考えるフォームを身につける」といった具合になるのだろうか。「脳の能力」とはなんだろう。「筋力」は「瞬発力」(瞬間的に一定の力を出すことができる)や「持久力」(持続的に一定の力を出し続けることができる)に置き換えることができるだろうから、脳の能力も「脳の瞬発力」と「脳の持久力」に置き換えてみる。

「筋力」が筋肉に負荷をかけることで上がるように、脳に負荷をかけることで「脳の能力」も上がるだろうか。経験から言えば、なんとなく上がる気はする。筋肉のように純粋に筋肉に負荷をかけることは難しく、「何らかの行為をする上で負荷がかかる」という感じだが。難しい数学の問題を解き続けていたら、脳の能力が上がるような感じがする。たとえば、脳の持久力が。とりあえず、何らかの手段で「脳の瞬発力」や「脳の持久力」が上がったとして、それではそれをどのように使うかということを考えてみる。走ることで言ったら、走るフォームの部分だ。

しかし、ここからが、本当にわからない。まず「考える」という行為は、「走る」ほど明確な行為ではない。個人的には、思考は言語に先立つと思っている。つまり、「思考」というのは漠然としたもので、そのなかで「言語」で(大まかには)記述できたものだけが当人にも理解、記憶できるものだと思っている。だから思考というプロセス「そのもの」は言語化できないのではないか。言語化された思考と、思考することは別物である。他者から観測できる、走るというプロセスすら言語化することは難しい。行動に表れない、意識の中で行われる思考というプロセスを言語化することは、極めて難しいか、できないと思うのだ。走るフォームを言葉で、あるいは手取り足取り教わったり教えたりするようには、考えるフォームを教わったり教えたりすることはできない。また、「走る」という動作に比べて「考える」という動作は、個人差が大きい「かもしれない」。自分の考えるプロセスすら言語化できず、観測できず、よって理解もできないので、他人のそれなどは未来永劫理解できないだろうので、「かもしれない」という言い方になる。

長々と文章を書いてきて、これ自体が「思考」を「言語化」する作業である。結局のところ「思考する」という行為についても「思考力」についても「さっぱり解らない」と思ってしまう。私より思考が鋭敏な人には思考という行為それ自体もより正確に理解されているのだろうか? だがその人の思考プロセスは私のそれとは全く異なっている可能性もある。やっぱり、さっぱり解らない。

ムーブメント

一昨日だったと思う。

夜、立川駅南口のペデストリアンデッキで、女の人が電話をしながら、ふとデッキの柵から身を乗り出して下を覗き込んだ。そのあと女の人はどこかへ歩き去ってしまった。

あの下に何かあるのだろうか? と思って僕も覗き込んだ。暗闇しかなかった。

もしかしたら、僕が覗き込んだのを見て、別の人も覗き込むかもしれない。そしてまた別の人がそれを見て覗き込むかもしれない。

連鎖的に、暗闇を覗き込んでいく集団。そんなものが自然発生したら面白いなと思った。

村上春樹が進研ゼミ高校講座のDM担当者だったら

「完璧な解答などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 僕が高校に入って最初のテストを受けたあと、担任が答案を返却しながら僕にそう言った。その解答用紙には六月の空のような空虚な数式が並んでいた。僕はそのテストで、自分が人よりも数学の才能がないことを思い知ることになった。今となってはそれはとても些細な――マヨネーズやアボカドやデヴィッド・ボウイに比べてということだが――事柄だったとわかるけれど、当時の僕はずいぶんと思い悩んだ。

 その頃、ホーム・ルームで僕の隣の席に座っていた女の子はとても数学がよくできた。僕は彼女に相談してみようと思って、ある日の昼休みに話しかけた。
「ねえ、君は数学がどうしてそんなに得意なの?」
「それは、一つには生まれつきのものなのよ。才能、と言うと少し大げさだけれど、足の速い人や絵が上手な人がいるように、数学ができる人もいる」
「じゃあ、僕は数学ができるようになることはないのかな」
「あるいは。でも、方法がないわけじゃないわ」
「その方法というものを教えてくれないかな。もし、君がよければ、の話だけど」
「ええ、じゃあもうすぐ授業だから、放課後にまた話しましょう。六時に駅前のカフェでいいかしら」
「わかった。ありがとう」
 彼女はうなずくと、机の上にあったオックスフォードの英英辞典とペン・ケースを持って、教室を立ち去った。僕は予鈴のチャイムが鳴るのを聞きながら、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

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谷保観光案内

序文

東京西部・国立市に、谷保(やほ)という街がある。

国立といえば、一橋大学桐朋学園など数々の名門校を擁し、「西の成城」と言われることもある多摩地区が誇る文教都市である。筆者に言わせれば、成城学園が「東の国立」だろうと思うが、そこを堪えて笑顔を保つのが国立の洗練、そして品格である。勝者は、殊更に勝利を強調する必要はないのだ。

同市の中心駅として国立駅があり、南口からまっすぐに伸びた大学通りは同市の目抜き通りであるとともに、広い緑地帯に植えられた種々の街路樹が季節の移ろいを感じさせてくれる、美しい道である。ちょうどこの時期は、立ち並ぶ銀杏の木にイルミネーションが施され、一層フォトジェニックになる。

さて、その大学通りを道なりに歩くと、やがて貴方は谷保駅を中心とする谷保という街にたどり着く。谷保駅は戦時中に空襲によって焼失し、戦後の資材難の時期に再建されたものである、などともっともらしく説明しても誰も疑わないような駅舎を持つ駅である。つい先日、ようやく地上から橋上駅舎へと移動できるエレベータが設置された。エレベータを設置するのは大変な難工事であり、筆者が高校に入学した頃には工事が始まり、丸3年が経たんとするこの時期になってやっと完成した。

この時期、南口の駅前には国立同様イルミネーションが灯っているが、そのイルミネーションはその辺の一軒家の方が煌びやかなのではないか、という代物であり、「存在する方が淋しい」という一種の逆説的な感情を見る者に与える。

反対側の北口は、ロータリーやコンビニ・居酒屋などもあり、一応駅前としての体裁を保っている南口と比べて、住宅街の中に突如駅があるといった様相を呈している。廃屋同然の建物に「瞑想室」と書かれた看板が掛かっており、とても気になる。

谷保は一見、大変淋しい街である。谷保にある谷保(やぼ)天満宮は「野暮天」「野暮」の語源になったとも言われるくらいであり、それを地名の由来に持つ谷保が、国立のように洗練された街とは程遠い街であることは自明である。

しかし、谷保には国立のように「わかりやすい」ものではないが、大変奥深い魅力が存在する。いささか前置きが長くなったきらいがあるが、この文章は、ともすれば国立の陰に隠れがちな谷保の魅力をつまびらかにすることを目的としている。

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死ぬくらいなら

自殺した人に向かって「死ぬくらいなら会社や学校をやめたりできただろう」と言う人がいる。

合理的に考えればその通り、どうせ死ぬんだったら会社をやめたって学校に行かなくたって別にいいじゃないか、となるんだけど、そこまで冷静に判断できるような人は自殺しないんじゃないかと思う。

人間って眠気が限界を超えると勝手に寝ていることが多いけど、それと同じで、疲労が限界を超えると勝手に死ぬようにできているのではないか。「過度の疲労」という生命の危機から逃れる方法が死だなんて矛盾していると思うけど。

なんだか疲れたり、落ち込んだりしているときに駅のホームで電車を待っていたりすると、「いま、あと一歩踏み出したら楽になれるな」などと思うのは結構誰でもやったことがある気がする。多くの人は、「楽になれるな」と思うだけで少し余裕が出てきたり、あるいはそこまでの勇気はなくて踏みとどまることができるんだけど、(肉体的・精神的な)疲労によって冷静な思考力と精神的な余裕を欠いた人は「楽になれるな→楽になろう」と短絡的に行動してしまうのではないか。

文末が「ではないか」とか「なんじゃないか」とかばっかりだけど、自殺したことがないので自殺する人の精神状態を推察することしかできないので、仕方ない。この推察さえも、まったく見当外れに終わっている可能性もある。それに、ここでは「肉体的・精神的な疲労によって追い込まれた人の自殺」を考えているけど、もうずっと希死念慮を抱えていたり、あるいは何らかの精神病に由来したり、自殺の理由は星の数ほどあるだろう。大した理由もなく自殺する人もきっとたくさんいる。

恋人や友人が自殺しないためにはどうすれば良いのかと考える。死ぬ前に「この人、もう限界が近いな」と気付いて、その人を追い込んでいるものから逃れさせることができればいいのだけど。しかし、実際には恋人や友人でもその人の心中や思考を完全に理解することはできないので、その「フラグ」を見落としてしまうことも、結構多そうだ。もし「この人死にそうだな」と気付けたら、無理矢理美味しいものを食べに行ったりできるのだけど。

死ぬくらいなら、寿司やステーキやスイーツを食べてから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、お金借りてでも高級ソープに行ってから死んだ方が良いし、死ぬくらいなら、自分を死ぬまで追い込んだ奴に一泡吹かせてから死んだ方が良いのだけど、食べたりセックスしたり復讐したりというのは極めて生命力に溢れた行動なので、自殺する直前の人に、そういうことを思い至らせるのはたぶん難しい。難しいけど、できれば死んで欲しくない。

死ぬくらいなら、とりあえず全財産はたいて、美味しいものおごってからにしてくれよ、と「死にたい」と零す友人には言っているんだけど。死ぬ前に、奇跡的にその言葉を思い出してくれることを期待して。

1993年

北野武の「ソナチネ」を観た。映画それ自体もとても洗練されていて面白かったのだが、映画を観ていて思ったことがあった。

ソナチネは、1993年公開の作品であるが、2016年の現実と比べて、あまり作中の景色が変わっていないのだ。ぱっと見てわかる違いは、車のデザインと携帯電話が使われていないことくらいか。

23年前、生まれる前の時代の日本と、現在の日本がほとんど変わらないというのはなんだか不思議な気分で、たとえば1970年と1993年の風景を比較したときに明確な違いがあるだろうことを考えると、この23年間の日本の発展してなさが気になる。いや、情報通信関連では大いなる発展があったんだろうけど。

いまから23年後は2039年で、随分と未来を感じさせる数字だが、2016年からさして変わらないんじゃないか、と思わないでもない。